第四章 私なんかじゃ
- 2019/08/20
- 00:06
落ち込むミクやんと思い溢れた兄さん(・ω・) みょるるは、兄さんとめーちゃんは性別を超えたマブダチだと信じて疑ってない生き物です。
「これが私の、やるべき仕事……」
美しい顔を、張り詰めさせて。今にも泣き出しそうな表情をした彼女が、ナイフを振りかぶった。彼女の瞳が、俺の左胸に向けられる。
けれど。
『だめ……やっぱり出来ない!! 愛する人を、殺せない!』
潤んだ瞳が、俺にそう告げていた。
彼女の瞳から透明な涙があふれ出すのと同時に、彼女の握っていたナイフは……カランと音を立てて床に落ちていった。
***
「ん? まだこんな時間か……」
思わず呟いてしまう。ベッドの脇に置いてある目覚まし時計は、まだ六時前である事を告げていた。けれど、授業があるんだからもう起きてしまっても良いだろう。そう結論付けて、軽く伸びをし布団の外へ出た。
朝の支度をしている最中、ふと視線を向けた机の上には……衣装のドレスを着てはにかむ未来ちゃんと、そんな彼女の隣でやや緊張した顔をしている俺の、ツーショット写真が飾ってあった。文化祭のステージが終わった後で、芽衣子さんが記念だからと言って撮ってくれたものだ。
あの時は……フレームに入らないからもっと近寄れと叫ぶ芽衣子さんの指示通りに動いて、ぎこちなく俺の方に体を寄せる未来ちゃんが可愛くて、思わずぎゅっと抱きしめそうになるのを頑張って堪えていた気がする。それと同時に、ステージの内外での彼女の変わりように驚いた。
本ステージのトリを務めたのは、俺と未来ちゃんのデュエット曲である『サンドリヨン』だ。あの自主練の日から幾度も練習を重ねた結果、本番の出来はなかなかのものであったと自負している。
そして、今回のステージでは……新しい試みとして曲中か終りに寸劇を入れたいと芽衣子さんが言いだした。そこで白羽の矢が立ったのがこの曲だ。
「この曲ではね、王子を殺すよう言いつけられていたサンドリヨンがターゲットの王子に恋をしてしまうの。だから、未来には……『愛する人を殺さないといけないけれど、愛するが故に殺したくない』というサンドリヨンの苦悩を表現してもらうわ」
結構大変な注文だと思ったんだけど、それを聞いた未来ちゃんはにっこり笑いながら『分かった』と芽衣子さんに答えていた。
そして、本番では見事にそれを表現していたと思う。床の上に引き倒した俺の上に馬乗りになって、模造剣を振りかぶった未来ちゃんは、悲痛な面持ちではらはらと涙を流していた。あれには演技派女優も真っ青だろう。未来ちゃんは何も小道具を使っていないのに、みるみる涙を溢れさせたのだから。
普段はにこにこと朗らかに笑う彼女だけに、舞台上での張りつめた表情は印象的だった。そして、泣いている彼女を、とても……美しいと思った。
あれ以来、ますます俺の心の中を未来ちゃんが占めるようになった。もっと彼女の事を知りたい。もっと彼女と一緒にいて、色々話をしたり二人で歌ったりしたい。
「次の三連休の旅行では、もう少し一緒にいられるのかな」
そう思うと、少し心が浮き立った。
***
「りょーこう♪ りょーこう♪」
目の前では、グミがはしゃぎながらぴょんぴょん飛び回っている。そして、周りの迷惑だから大人しくしろと言って岳先輩が注意する声や、あんなにはしゃいで可愛いわねと笑うめーちゃんの声が響いていた。
軽音部では、設立当初から『十一月の三連休に部員だけで旅行に行く』という慣習がある。なので、今年も例年通り旅行に行く事になった。
今までは関東地方のどこかだったんだけど、今回は文化祭のステージが例年以上に大人気だった事と、生徒会主催の人気投票で一位になれたご褒美という事で(賞金も少し出たし)、関西……京都にまで足を延ばす事になった。
「京都なら、ずっと住んでたから色々案内できると思うよ」
そう言って下さった海斗先輩の存在も大きかったのだろうけど。海斗先輩には地元ならではの学生に優しい宿とか、美味しいお店とか、そういうお得情報をたくさん提供してもらった。
「未来! 向こうでは美味しいものたくさん食べようね!」
普段から部室に入り浸り、副部長の妹でもあるという事で毎年くっついてくるグミは、とても爽やかな笑顔を浮かべながらそう言った。
「そうだね……でも、お店の在庫状況考えてあげてよ」
「え、ちょっと、どういう事よ!」
「グミの食欲は天井知らずだから……」
そう答えた後で、なにそれと抗議するグミを視界の端に追いやり、駅の様子を眺めていると……ついつい海斗先輩を目で追ってしまっていたらしく、先輩と目が合った。
「未来ちゃんは京都に行くの初めて?」
いつものように微笑みながら、海斗先輩は話しかけて下さった。でも、先日先輩の事を好きだとはっきり自覚してしまったから……そんな普段通りの何気ない仕草にさえ、どきっとして心臓が跳ねてしまう。
「あ、えっと……前に家族で行った事が、一度だけあります」
「へぇ、いつ頃?」
「今年の八月に、二泊三日で」
「……あれ、結構最近?」
「はい。夏休みの事ですから……そうですね、最近です」
「そっか。楽しかった?」
そう聞かれて、思わず言葉に詰まってしまった。確かに、旅行は楽しかった……二日目の、午前中までは。
「ええと……楽しかった事は楽しかったんですけど、旅行の最中に持ち物を失くしてしまって。それが、私にとってとても大切なものだったから……帰ってきてからも少し落ち込んでしまってました」
「え? そうなんだ……それは残念だったね」
眉尻を下げた、労わるような視線を向けられる。どうしよう、気を遣わせちゃったかな……。
そう思った私は、慌てて付け加えた。
「でも、京都の町並みはとても綺麗だったし、お寺とかも趣があっていいなって思っていたので、今回行けて良かったです。前の旅行じゃ全部は見られなくて、また行きたいと思ってましたし」
付け加えた私の言葉に、先輩の表情が元通りになる。いつも通りの穏やかな表情で『それなら良かった』と言って下さった。
どの辺りを見ていたのかという話になったので、金閣寺と銀閣寺に行った話や五条通りを歩いたという話をした。そして、一通り話し終えた所で……不意に真顔になった海斗先輩に、別の質問をされた。
「何だったの?」
「……え?」
「未来ちゃんが失くしたもの。何だったの?」
何で今それを聞くのだろうとは思ったけれど、別に隠す事でもない。なので、正直に答えた。
「イヤリングなんです。片方だけだったんですけど」
すると、イヤリングと言った瞬間海斗先輩が目を見張った。一体、どうしたというのだろう?
「あの、さ……どんなの? 形とかは……」
「形ですか? そうですね……ガラスのハイヒールを模したものなんです。それこそ、童話のシンデレラが履いていたような」
そう言った瞬間、今度こそ海斗先輩の顔が驚愕の色をはっきりと映した。
「……先輩、どうされたんですか?」
「ああ、いや……何でもないよ」
「……そうですか」
明らかに狼狽していると分かる表情だったけれど……その後も、理由を教えてもらえる事はなかった。
***
「さあっ、皆の衆。このくじを引きたまえ」
部内旅行二日目。昼食を食べ終えた後に重々しい口調でそう言いながら、芽衣子さんは手に持っていた箱をどんっと机の上に置いた。
「えっと……芽衣子さん。これ、何のくじ?」
「あ、そっか……海斗は知らないわよね」
そう言って、芽衣子さんは周囲を見渡した。そして、未来ちゃんに視線を向ける。
「未来が海斗に説明してあげなさい。その間に他の人はくじ引いて」
「ええ!?」
驚く未来ちゃんに向かってそう言い放つと、芽衣子さんは反論は聞かないと言いたいのか、すぐに未来ちゃんから目線を逸らして他のメンバーに呼びかけ始めた。
「え、と……教えてもらえる? 未来ちゃん」
「あ、はい」
いきなりの指名で驚いたからなのか、少し顔を赤くした未来ちゃんはゆっくりと口を開いた。
「あの……日帰りでも、泊りがけでも、部員皆で出かけた時は……こんな風にくじをするんです。二人組を作るために」
「二人組を作る?」
「はい。くじで二人組を作って、その二人で観光したり遊んだりして親睦を深めましょうって事で。人数が増えると、どうしても一緒にいる人が偏っちゃうからって……」
「なるほどね。」
「毎年秋旅行は二泊三日だから……二日目の午後は二人組で行動しているんです。だから『今回もいつも通りやるわよ』ってめーちゃん言ってて、それで……」
「そっか。ありがとね」
お礼を言うと、未来ちゃんは照れたように微笑んだ。そして、軽く会釈すると自分もくじを引きにいった。
「aってだれー?」
「俺、bだ」
そんな会話が聞こえてくる。そういや、俺まだ引いてなかったな。
「芽衣子さん、くじもらえる?」
「ええ。じゃあここから引いて」
そう言われて差し出された箱から折りたたまれた紙片を取った。開いてみると、そこに書かれていたアルファベットは『d』の文字だった。
「あの、海斗先輩」
前の方から声をかけられたので顔をあげてみると、そこには……俺の顔を下から覗き込むようにして見上げている未来ちゃんがいた。
「私は『c』だったんですけど、先輩は何でしたか?」
「俺? 俺は……これ」
そう言って、紙片の文字を見せる。一瞬……未来ちゃんの表情が陰った気がした。どうしたんだろうと思って口を開きかけたその時、横から瑠華ちゃんが現れた。
「未来ちゃんが『c』?」
「うん。あれ、瑠華さんも『c』?」
「ええ。ほら」
そう言ってひらひらと紙片を振ってみせる瑠華ちゃん。未来ちゃんと二人きりなんて初めてねと笑いかける瑠華ちゃんに向かって、未来ちゃんもそうだねと答えている。
そんな二人をぼんやりと眺めていると、不意に後ろから肩を叩かれた。
「ねえ、海斗が『d』?」
振り返った先にいたのは、眼鏡をかけた芽衣子さん。朝食の時、眼鏡なんて珍しいねと話を振ると『普段はコンタクトなんだけど、旅行中は荷物減らしたいし面倒だから、二日目以降は眼鏡かけてるの』って教えてくれた。
そして、色違いのフレームで作ったおそろいの眼鏡を未来ちゃんも持っているらしい。軽い近視で、授業中はかけているのだとか。
「そうだよ」
「そうなのね。それなら、回る場所の打ち合わせをしましょうか」
「うん」
ついて来てと言われたので、言われた通りに芽衣子さんの後をついていく。ふと周りを見渡してみたが、誰もいなかった。他のメンバーは既に出発したようだ。
旅館のロビーでペットボトルの飲み物を飲みながら、どこに行く、何をする等の話を進めていく。と言っても、俺は相槌を打ってルートの提案をする位で、もっぱら予定は芽衣子さんが提案したものだ。特に反対する理由もなかったので、すんなりと予定は決まっていった。
「それじゃ、これで行きましょうかね」
「うん、それなら回りきれると思うよ」
「助かったわ」
芽衣子さんは、満足そうに計画表を眺めている。書類を眺めながら考え事をしているその様は、正直高校生には見えなかった。
「次の作品のために、どうしても回っておきたくて。やっぱり地元の人間がいるのは大きなアドバンテージね。今度絵里奈も京都行くって言ってたから、その時も協力してあげてくれない?」
「日乃元さん? 次の原稿の取材とか?」
「ええ。文化祭の時の話の続きを書くって言ってるんだけど、その参考にしたいからって」
「文化祭の……って、ああ、あれね。あのノベライズ」
「続編をバレンタイン特別号に載せるって言ってたわ。続きが読めるって鈴と未来がはしゃいでたわね」
「へぇ……」
文化祭でサンドリヨンの前に歌っていた、とある一曲。その曲を歌う事になったのは、芽衣子さんの友人で部長仲間の日乃元絵里奈さんに提案されたからなのだそうだ。
何でも、日乃元さんは中一の頃から軽音部、特に岳の大ファンなのだとか。毎回欠かさずにライブを見に来ていて、ちょこちょこ差し入れもしてくれているらしい。芽衣子さんは作詞作曲を中学生の頃からしているらしいが、歌詞が浮かばない時は日乃元さんに頼んでいると言っていた。
岳のファンならその彼女である瑠華ちゃんの事はどう思っているのだろう、なんてちらっと考えてしまったが、日乃元さんは瑠華ちゃんとも楽しそうに話していた。二人の仲も良好らしい。
そんな日乃元さんに、芽衣子さんは瑠華ちゃんが帰国した時の出来事を話したそうだ。すると、その二週間後『新作書いたの! 今度の文化祭増刊号に載せるつもりなんだけど、その時によかったら元になった曲歌ってほしいなって思って』と言って、印刷した原稿を持って日乃元さんが軽音部の部室に現れた。
そして、それを読んだ芽衣子さんがその話を気に入って『それなら岳と瑠華、あとは……もう一人のメイン登場人物の未来にも歌わせるわ』と約束し、三人で歌う事になったという。歌ってもらえるなら歌詞割りとか衣装はこちらで準備すると言うので、文化祭前日乃元さんはよく軽音部の部室に出入りしていた。その伝手で、俺も彼女と話すようになった。
「確かに、あの話の舞台は古都っぽかったもんね。衣装も和服チックだったし」
「そうね。それにしても、あの曲をああいう風なお話にするなんて……あの子の頭の中はどうなっているのかしらね」
「原作の雰囲気とはかなり違ってたもんね。まぁ、歌詞の解釈の仕方なんて聞いた人の自由だとは思うけど……」
「そうだけど……それにしても、よくあんなに考えつくものだわ。執念って凄いわね」
「執念て。あ、もうすぐ電車来る時間だし、とりあえず出発する?」
「もうそんな時間なの? じゃあ行きましょうか」
その言葉を合図に、俺達も出発する事にした。
***
「ふふ、うかない顔ね。他の人の方が良かった?」
ぼんやりと道を歩いていると、一緒にいた瑠華さんが私の顔を覗き込んで、笑いながら話しかけた。
「あ……ごめん。ううん、そんな事ないよ」
「なら、いいけど。さっきから心ここにあらずって感じだったから」
「あ……ちょっと、考え事してて」
「考え事?」
「うん……っていっても、大した事じゃないの。だから、大丈夫だよ」
「そう? じゃ、せっかくのデートだもの、楽しみましょ?」
「そうだね!」
せっかく一緒に出かけてるんだもん、楽しまなきゃね。瑠華さんと二人で出かける事って、今までなかったし。
「次はどこに行こうか?」
「そうねぇ……ちょっと行ってみたいお店があるの。そこでいい?」
「いいよ。どこ?」
「扇子を売ってるお店なんだけどね……」
二人で地図を覗き込む。今いる場所からだと、少し離れているようだ。
「バスか地下鉄に乗って行こうか。この距離じゃ、歩くのはちょっときついよね」
「そうね。じゃあ……まずはこの坂を下りましょ」
私達二人が最初に来たのは、清水寺。やっぱり京都観光なら外せないよねって事で来てみたのだ。
参道から続いている商店街の店を、二人で眺めながら歩いて行く。すると、よく見知った顔を発見した。
「あれ、岳先輩じゃない?」
「ほんとね……あら? あのお店ガラス細工のお店かしら?」
「多分。入口にガラスのタヌキが置いてあるし」
「それなら、岳……部屋に飾れるような置物でも探してるのかもしれないわね」
「置物? オブジェとか?」
「たぶん、そんなの。岳の部屋シンプル……と言うより、物が少なくて殺風景だから。何か飾ってみたらって前から言ってたの」
「ふーん」
「あら、そうなると……蓮君は岳に付き合ってくれてるって事よね。何だか悪いわねぇ」
そういや、今日の岳先輩の相方は蓮君だったね。
「蓮君もああいうの好きみたいだし、大丈夫じゃない?」
「そうなの?」
「鈴が言ってたんだよね。前に二人で甘味屋巡りしてる時に、蓮君がちょっと寄りたいって言って、向かったお店が……可愛い雑貨屋さんだったんだって」
「へえ……そうなのね」
感心したように頷いている瑠華さん。その視線は、楽しそうに話している男子二人組に向けられている。そして、そのうちの一人……岳先輩の方に視線を向けると、ふうっとため息をついた。もしかして、瑠華さん……私と一緒だったり、する?
「あのさ……」
確かめてみたくなって、隣にいる瑠華さんに呼び掛けた。なあに、とこちらを振り向いた瑠華さんは、いつもの表情に戻っている。
「瑠華さんは、さ……やっぱり、先輩と一緒が良かった?」
「先輩……岳と?」
「うん。ほら、やっぱり、旅先でも二人になりたい、とか……」
「別に、そうでもないわね」
あっけらかんと瑠華さんが答えた内容は、私の予想に反するものだった。意外といえば意外だ。先輩の方は、結構不満げに見えたから。瑠華さんと一緒になった私に対して、視線で何かを訴えていた気がする。
「岳となら、これから先二人で来る機会あるでしょうし。だから、一緒なら嬉しいけどそうでなくても問題ないわ」
「ふーん……そういうもの?」
「ええ。常日頃からべったり一緒にいるものでもないでしょう? きちんと自立してなきゃ、負担や迷惑になっちゃうし……少しは離れていた方が、次に会えた時は嬉しいもの」
「そっか」
そう考えられる瑠華さんは、やはり大人だと思う。まぁ、その理屈で言えば岳先輩の方が子供になっちゃうけど。二人は仲良しだけれど、全部が全部同じ意見って訳でもないらしい。
「まぁ、それでも、もう……さすがに一年は離れたくないけどね」
「あぁ、そりゃ一年間は長いよね……」
苦笑しながらそう答えた。確かに、二人は一年間太平洋を挟んだ距離にいたのだから『少し』の域を飛び越えている。そもそも、日本国内であっても一年離れていたら寂しいものだろう。まして……大好きでたまらない、最愛の恋人であったなら。
それでも岳先輩は瑠華さんをアメリカへ送り出したのだ。『俺はきちんと待っているから、頑張ってこい』と、そう言って。彼女の夢を応援した。
先輩は凄いなあってしみじみと感動しながら、持っていたペットボトルのお茶をごくごくと飲んだ。十一月下旬とはいえ、歩き回っていたらやっぱり喉が渇く。
「長かったわねぇ……あ、だからかしら」
「?」
まだ口を付けていたので、視線だけを瑠華さんに向けた。すると瑠華さんは、ごくごく普通と言った表情で、世間話でもするかのような自然な口調で……盛大に惚気た。
「岳ね……寂しかったからなのか知らないけど、私が帰国してから一週間はずっとうちに泊まってたの。最初の三日間なんて、ほとんど抱きしめられたままで家からも出してもらえなかったわ。でもね……ふふ、ずっと二人きりで嬉しかった」
「ぶはっっ」
飲んでいたお茶を盛大に吹き出してしまった。げほごほとむせている私の背中を、瑠華さんがさすってくれる。
「大丈夫? 未来ちゃん」
「だ、大丈夫……」
愛しい彼女を一年外国に送り出せる度量の深さはあっても、離れていた事自体はやっぱり寂しかったらしい。でも、そんな事をさらっと言うなんて……やっぱり、瑠華さんは帰国してからデレやすくなった気がする。
「まぁ、大学はそのまま音宮に行くつもりだし、しばらくは日本にいるつもりよ。一カ月位の短期留学は行ってもいいかなって思っているけどね」
「大学かぁ。全然想像がつかないや。んー、でも、私はこのままいけば……音宮大学のどこかの学部だろうけど」
でも、音宮大は総合大学だから学部がいっぱいある。その中から四年間通いたいと思う所を見つけないといけないのだ。悩むなぁ。
「めーちゃんは外部受験するって言ってたけどね」
「あら、そうなの。音楽関係だったかしら?」
「そう。小学校の頃から言ってたもん、私は作詞作曲が出来る音楽プロデューサーになるのって」
「へぇ、そうなのね」
「うん。でね、初めてそう聞いた時に……『なりたい』じゃなくて『なるの』って言い切っためーちゃんは凄いなって思ったのを、今でも覚えてるよ」
「芽衣子さんらしいわね」
「うん、めーちゃんらしいよね」
そう言って残ったお茶を飲み干した。そして言葉を続けていく。
「めーちゃんはそのための努力だって欠かさないの。あの成績キープしながら音楽の勉強もして、曲作って動画サイトで発表したり、オフラインで活動したり」
こつこつと足元から音がする。今回の旅行では、ちょっと背伸びしてヒールのあるショートブーツを履いてきたんだ。
「めーちゃん凄いんだよ。作った動画は再生数十万回余裕で超えるし、中学の時からプロの人と一緒にプロジェクト立ち上げて活動してたりするんだもん」
め―ちゃんの活動に、私や鈴も時々協力していた。鈴は絵を描いたりお菓子作るのが上手いから、動画のイラストを書いたり差し入れのお菓子を作っているけど、私は主にめーちゃんの作った歌を歌う役目だ。
基本めーちゃんは動画を作る時、歌は自分で歌ってるんだけど……時々は、未来の声の方が合うからお願いって頼まれて、代わりに私が歌う事があった。オフラインでライブをする際のコーラスを頼まれて、それに参加した事もある。
「それはすごいわね。その道で働いている人となんて……大変だろうけど、でも、やりがいも大きいのでしょうね」
「うん。『楽しい、やっぱり私にはこれが合ってるわ』って、そう言ってたよ。そりゃね、め―ちゃんがそっちの方に進むなら外部受験しなくちゃならない訳で、そうすると学校とか離れちゃうからそれは淋しいけど……それぞれが自分のやりたい事をするべきだって、思うし」
「音宮にも音楽関係の学部があったら良かったわね。そうしたら大学も一緒だったでしょ?」
「うん。でも……鈴は音宮短大の家政科に行きたいって言ってたし、どのみち高校卒業したら進路はばらばらだろうな。まあ、家は隣同士だし離れてたって三人仲いいのは変わんないんだから、別にいいけど」
「進路は自分で決めないといけないものね。自分の人生なんだから、自分で責任取らないと」
「そうだよね……」
既に将来の夢を持っている二人に対して、私はまだまだ不透明。見えない未来に沈む心を、ふうっとため息をつく事で逃がしていった。
***
「しけた顔してるわねぇ。そんなに未来の方が良かった?」
「ごふっっ!!」
呆れたとでもいうような声音で、芽衣子さんがさらっと爆弾を落とした。半眼になっている彼女は、持っていたストローでからからと飲み物を混ぜている。
「え、ちょ……いや、そんな事は……」
「盛大に噴き出しておいてよく言うわ。図星だったんでしょう」
「う……」
そう言われると反論出来ない。別に芽衣子さんが云々って訳ではないし、話していて楽しいのも事実だけど、出来るなら……って思ったのも、また事実だ。
でも、なんでそこまで分かったんだろう。
「……何で分かったんだって顔してるわね」
これまた図星を刺されて、どきりと心臓が跳ねる。冬も近づいてきて寒くなってきているのに、背筋に冷や汗が伝った。
「芽衣子さん、超能力でも使えるの?」
何でも出来る、完璧超人との呼び声も高い芽衣子さんなら本気で使えそうな気がするけど。でも、そんな俺の言葉を芽衣子さんは一蹴した。
「んな訳ないでしょ。あんた達が分かりやすいだけよ」
はあっとため息をつきながら、芽衣子さんはそう答えた。
「分かりやすい……え、あんた達? 俺だけでなくて?」
まさか向こうも……何て淡い期待をしていたら、続けられた言葉でこれも一蹴されてしまった。
「岳も瑠華と一緒になった未来を、羨ましそうな目で見ていたもの。瑠華の方はあんま気にしていないみたいだったけどね」
「ああ……そっち」
確かに、瑠華ちゃんの方は未来ちゃんと二人なのねって楽しそうだった。そういう所は温度差のある二人のようだ。
「蓮は蓮で、帰りの新幹線では鈴の隣がいいって言ってきたし。ま、あの子の場合行きの隣は瑠華だったから、色々と気を遣ったり向けられる視線がいたたまれなかったりして大変だったんだろうけどね」
全く、うちの部の男どもは……なんてのたまう芽衣子さん。それをさ、俺の前で言わなくても。
「まあいいわ。ちゃらちゃらした男よりはよっぽどましよ。頑張ってうるさいハエどもを追い払ってきた甲斐があったわ」
そう言った芽衣子さんは、残っていた飲み物を飲み干した。
「さて、確認だけど」
机の上に肘をついて、顔の前で手を組んだ芽衣子さんがこちらに視線を向けた。
「確認?」
一口残っていた団子をほおばりながら芽衣子さんに視線を向ける。芽衣子さんはおもむろに口を開いた。
「あんたは未来が好きなんでしょう」
「うぐっっ!」
驚いたはずみで、団子が喉に詰まってしまう。どんどんと胸の辺りを叩きながら、一緒に頼んでいたほうじ茶を飲み干した。
「な、何でそれを……」
「言ったでしょう、あんた達は分かりやすいのよ。そうね……私の他にも、瑠華や岳、蓮辺りも気づいているんじゃないかしら」
「そ、そんなに? そんな分かる程顔に出してた、俺?」
「顔にというより……あんたは目で未来を追っていたから。視線の動きは、時に言葉よりも雄弁に本人の心を語るものよ」
「それはまあ、そうだと思うけど」
「だから、よく目が合う人の事を意識するんじゃない。目が合うって事は相手も自分の事を見てくれているからだって、相手も自分に興味を持ってくれているんだって、無意識のうちに分かっているから意識するんでしょ? 人間、興味のないものには見向きもしないじゃない」
「そういう事ね……」
「部長なんてやってると、部員達の様子にも気を配る必要があるから……そういうの気付きやすいのよ。去年もそうだったわ」
「去年?」
「岳と瑠華よ。あの二人も付き合うまではまごまごしてたから。その後は一直線だけどね」
「……全然想像がつかないや」
勝手な想像だけど、あの二人はスムーズに付き合いだしたんだろうなって思っていた。岳はストレートに想いを言うし、瑠華ちゃんも二人きりの時は素直だって言ってたし。まぁ、そう言っていたのは岳だけども。
「当時はじれったくってしょうがなかったわ。グミちゃんの協力がなかったら、あの二人は今頃どうなっていたのかしら」
当時を思い出したのか、懐かしむような声で芽衣子さんが語る。協力的な妹がいてくれて、あの二人は果報者だったわね、と笑いながら教えてくれた。
「だから、今回は私が協力してあげようと思ったのよ。でも、対価もなしに自分の妹分の事を教えるのは、気が引けるわね」
「芽衣子さん、そこをなんとか」
「うーん、そうね……そうだわ、お土産用の甘酒でも買ってくれたら、疑問には全て答えてあげるわ」
「疑問?」
「未来の事、色々知りたいでしょう?」
「それは、まぁ、もちろん」
「私はあの子の事を、あの子が生まれた時から知っているもの。食べ物の好き嫌いから、趣味特技に好きな男のタイプまで……あの子に関する全ての情報を握っているわ。だから、いろいろ教えてあげられると思うけど」
「……甘酒、どの種類にするか考えておいて。なんなら一升瓶でもいいよ」
そう答えると、少し経ってから芽衣子さんの手がこちらに差し出された。そして、どちらともなく握手を交わす。
取引は、無事成立したようだ。
***
「あら? 今度は海斗先輩と芽衣子さん?」
瑠華さんが行きたいと言っていた扇子屋さんで買い物した後、町をぶらぶらしていると……思わずといった口調で、瑠華さんが呟いた。先輩とめーちゃん? と思ってその視線の先をたどってみる。すると、二人が楽しそうに話している所だった。
「甘味どころみたいね。午後のおやつかしら、お団子美味しそう」
瑠華さんがのほほんとそんな事を言い出した。楽しそうねぇなんて、笑う声も降ってくる。
「……確かに、楽しそうだね」
視線の先では二人が楽しそうに笑い合っている。道路を隔てているから、二人ともこちらに気づく様子はない。私の好きな人が、私がいるのに気づかないまま、私には分からない話を別の女の子と楽しそうにしている。
たとえ、その人も自分にとってとても大切な人だとしても。大好きな、姉代わりの人であっても。二人きりでテーブルを挟んで楽しそうにしている姿は、見ていてあまり気持ちのいいものではなかった。
二人の楽しげな姿を見ているのは辛いのに、どうしてか目が離せなくて。そのままぼんやり眺めていると……めーちゃんが先輩の方に手を差し出した。めーちゃん、一体何を、と思ったその時には、もう。海斗先輩は、その手を握っていた。
(……息が、苦しい)
二人が、お互いをじっと見て握手をしている。その光景は、私から平常心を奪っていった。呼吸をするのは、こんなに難しい事だっただろうか。喉というのは、こんな簡単に干上がるものであっただろうか。
大きく息を吸おうとして、胸元に手を当てる。けれど、自分の掌を意識した事でさっきの光景が脳裏に蘇って、心臓が握りつぶされるような心地がした。
「あらあら、二人ともどうしたのかしら」
不思議そうな顔をしている瑠華さんの横で、泣きそうになっている自分がいた。ううん、もう、目頭が熱い……。
「先輩、めーちゃんの手ならためらわずに握るんだ」
「え?」
「私の時は、あんなに、ためらっていたのに……」
「未来ちゃん?」
「やっぱり、男の人は……めーちゃんみたいなしっかりした女性の方が、大人の女性の方が、良いものなのかな……。私なんかじゃ、高望み、だったのかな……」
ひとりでに頬を伝う涙を、止める事は出来なかった。
***
「ん? 電話?」
夕飯を食べた後に温泉につかり、男子部屋に集まって皆で騒いでいると……手元にあった携帯電話が震えだした。
「ごめん、ちょっと電話に出てくるね」
女将さんにもらった甘酒を幸せそうに飲んでいる芽衣子さんや、それをおちょこ一杯飲んだだけで潰れてしまった(甘酒なのに)恋人を介抱している瑠華ちゃん、追加デザートという事で午後の戦利品を食べているグミちゃんや鈴ちゃん達のいる方にそう声をかけて、俺は部屋を出ていった。
「もしもし?」
ロビーに出た辺りでボタンを押して電話に出る。電話をかけてきたのは母だった。今までに友人と泊りがけの外出をする事がなかったので、様子が気になったようだ。
昨日今日の様子を聞かれるままに答え、明日の夕方には東京に戻るよと言って電話を切った。
「……この辺はまだ残ってるんだな、紅葉」
ふと窓の外を見ると、半分位は葉を残した紅葉の木が映っていた。夜目にも分かる鮮やかな赤色が、ひらりひらりと舞い落ちていく。
舞い落ちていった紅葉の葉を追いかけて、落ち葉が積もっている地面にも目をやったけれども、何となく……物悲しいような、胸が押し潰されるような心地がして。そんな苦しさから逃げるように、目の前の赤から目を逸らした。
昔から、赤い床や地面を見るのは好きではない……というより、正直嫌いだった。小さい頃に何かあったとか、そういう訳ではないけれど。物心ついた時から、見ているだけで訳もなく悲しくなるので、見るのが嫌だったのだ。
「あ……海斗先輩。ここにいらしたんですね」
俯いて負の感情をやり過ごそうとしていると、聞いているだけで心が晴れやかになるような、澄んだ声が俺の名前を呼んだ。
「未来ちゃん? どうしたの?」
「えと、あの……めーちゃんが探してきてって。電話だけなのに遅いって言って……」
「そっか。わざわざありがとね」
そうお礼を言うと、未来ちゃんは笑顔になった。やっぱり、彼女には笑顔が似合う。
「……ちょっと話さない? そんなに時間は取らせないから」
笑顔の似合う彼女が、夕食中ずっと俯いて浮かない顔をしていた。気になってはいたけれど、流石に皆でご飯を食べてる途中に聞く訳にもいかず、心配していたのだ。
「……分かりました」
未来ちゃんはぱちぱちと目を瞬かせながら、驚いたような表情で答えた。了承が得られたので、ロビーのソファへと誘導する。二人で並んで座れるようなソファしか空いていなかったので、彼女には隣に座ってもらった。
しかし、いざ聞けるとなった所で……どう切り出したらいいものかを全く考えていなかった事に気づいた。上手い言葉や科白が出てこず、時間だけが空しく過ぎていく。
「あの……何か、私にご用があったんですか?」
色々考えすぎて黙ったままの俺を気遣ったのか、はたまた押し黙ったままの重苦しい空気に耐えかねたのか、未来ちゃんの方から口を開いてくれた。自分情けないなあ……と思いつつ、せっかく彼女が切りだしてくれたのだからと、俺の方も口を開く。
「あの……午後に何かあったの?」
「え?」
「夕飯食べてる時……未来ちゃん浮かない顔してたから、気になって。何かトラブルでもあったのかなあと思って、さ」
「トラブル、ですか……」
そう呟くと、未来ちゃんは口元に手を当ててうーんと唸りだした。その表情が段々沈んでいくので、無責任だったかと少し後悔していると、未来ちゃんは顔を上げて寂しそうに微笑みながら口を開いた。
「午後に瑠華さんと町を回ってて、その途中に将来の話になったんです。瑠華さんは大学に入ったらやってみたいって言っている事があって、鈴も既に将来の夢があるし、めーちゃんは夢通り越して目標になってて、岳先輩も蓮君もぼんやりとではあるけれど決まってるって前に言ってて……」
「へぇ……皆すごいね。俺なんて、法律に興味があるから法学部を受けてみようかなって事位しか考えてないや」
「そうなんですね。でも、私は……ほんとに、何にも決めてないんです。文理すら決めてなくて」
「まだ一年だし、そこまで焦らなくてもいいんじゃないかな? 特に、音宮は決めるの他のとこよりも遅かったよね?」
「はい。音宮は高三になってから文理分かれるので、他の公立よりは遅い方です。でも……私の周りでは、既に決まってる人の方が多くて。だから、それに向けて今から頑張っている人も多いのに、私だけ何にも考えてなくて……」
ぽつりぽつりと。未来ちゃんは言葉を紡いでいった。
「めーちゃんとか鈴は、悩んでるなら音楽関係にいったらいいって言ってくれるんです。未来は歌が上手いから、未来の歌は聞いている人を感動させる力があるんだからって。だから、歌手になるといいって、言ってくれるんです」
「俺もそう思うけどね。皆から『歌姫』なんて言われてる位なんだからさ」
そう返答するけれど、未来ちゃんの表情は相変わらないままだった。
「……でも、二人はそう言ってくれるけど、歌姫なんて言われているけど。私なんかじゃ……芸能界ではやってけないですよ。もともと、歌姫なんて私には過ぎた名前ですもん」
「別に、そんな事は……」
「いいえ、そうですよ」
何時になく、はっきりとした口調で未来ちゃんがそう答える。声に、諦めと自嘲が混じっているような気がした。
「こんな、人見知りで、容姿だって人並みで」
「未来ちゃん」
「未だに中学生に間違われるような子供っぽい私に、そんな」
「そんな事、言っちゃだめだよ!」
やりきれなくて、思わず彼女の言葉を遮るように叫んだ。何でそんなに自分を卑下するのだろう。未来ちゃんは、君は、誰よりも歌姫という呼称が似合う女の子なのに。歌が、歌う事が、似合う子なのに。
「そんな風に言うものじゃないよ! そりゃ、どんなプロだって自分に自信が持てないって不安になる事はあるだろうし、謙虚さは忘れちゃいけないけれど、謙虚さと自分を貶めるのは違う事だ! 一番自分を信じてあげられるのは自分なんだから、未来ちゃんには好きだって言ってくれるファンがいるんだから、だから、そんな……悲しい事、言わないでくれよ……」
叫んだ勢いのままに彼女の肩を掴んで、目尻に涙をにじませた大きな青い瞳を見つめて、必死の思いで告げた。
「……先輩」
拍子抜けした、という表現がよく似合うような表情で、心底驚いているといった表情で、目の前の彼女は俺を呼んだ。そういえば肩を掴んだままだったので、力を抜いてゆっくりと手を外した。
「……ごめん。いきなり怒鳴って、肩まで掴んじゃって。驚いたでしょ?」
嫌われたらどうしようなんて不安が頭をよぎる。しかし、発した言葉は、告げた言葉は、無かった事には出来ない。
「あの、驚いた事は驚いたんですけど……」
潤んだ瞳がこちらに向けられる。こちらを見上げた未来ちゃんは、目が合うと……本当に嬉しそうに、にっこりと笑った。
「ありがとうございます。そんな風に言ってもらえて……不謹慎ですけど、そんな風に一生懸命言ってもらえて、嬉しかったです」
目の前で、涙目ではにかむ未来ちゃん。ほら、やっぱり。彼女には笑顔が似合うじゃないか。
そう思ったら、止まらなくて。無意識のうちに彼女の細い肩に腕を回して、そのまま……華奢な体を、きつく抱きしめた。
(続)
「これが私の、やるべき仕事……」
美しい顔を、張り詰めさせて。今にも泣き出しそうな表情をした彼女が、ナイフを振りかぶった。彼女の瞳が、俺の左胸に向けられる。
けれど。
『だめ……やっぱり出来ない!! 愛する人を、殺せない!』
潤んだ瞳が、俺にそう告げていた。
彼女の瞳から透明な涙があふれ出すのと同時に、彼女の握っていたナイフは……カランと音を立てて床に落ちていった。
***
「ん? まだこんな時間か……」
思わず呟いてしまう。ベッドの脇に置いてある目覚まし時計は、まだ六時前である事を告げていた。けれど、授業があるんだからもう起きてしまっても良いだろう。そう結論付けて、軽く伸びをし布団の外へ出た。
朝の支度をしている最中、ふと視線を向けた机の上には……衣装のドレスを着てはにかむ未来ちゃんと、そんな彼女の隣でやや緊張した顔をしている俺の、ツーショット写真が飾ってあった。文化祭のステージが終わった後で、芽衣子さんが記念だからと言って撮ってくれたものだ。
あの時は……フレームに入らないからもっと近寄れと叫ぶ芽衣子さんの指示通りに動いて、ぎこちなく俺の方に体を寄せる未来ちゃんが可愛くて、思わずぎゅっと抱きしめそうになるのを頑張って堪えていた気がする。それと同時に、ステージの内外での彼女の変わりように驚いた。
本ステージのトリを務めたのは、俺と未来ちゃんのデュエット曲である『サンドリヨン』だ。あの自主練の日から幾度も練習を重ねた結果、本番の出来はなかなかのものであったと自負している。
そして、今回のステージでは……新しい試みとして曲中か終りに寸劇を入れたいと芽衣子さんが言いだした。そこで白羽の矢が立ったのがこの曲だ。
「この曲ではね、王子を殺すよう言いつけられていたサンドリヨンがターゲットの王子に恋をしてしまうの。だから、未来には……『愛する人を殺さないといけないけれど、愛するが故に殺したくない』というサンドリヨンの苦悩を表現してもらうわ」
結構大変な注文だと思ったんだけど、それを聞いた未来ちゃんはにっこり笑いながら『分かった』と芽衣子さんに答えていた。
そして、本番では見事にそれを表現していたと思う。床の上に引き倒した俺の上に馬乗りになって、模造剣を振りかぶった未来ちゃんは、悲痛な面持ちではらはらと涙を流していた。あれには演技派女優も真っ青だろう。未来ちゃんは何も小道具を使っていないのに、みるみる涙を溢れさせたのだから。
普段はにこにこと朗らかに笑う彼女だけに、舞台上での張りつめた表情は印象的だった。そして、泣いている彼女を、とても……美しいと思った。
あれ以来、ますます俺の心の中を未来ちゃんが占めるようになった。もっと彼女の事を知りたい。もっと彼女と一緒にいて、色々話をしたり二人で歌ったりしたい。
「次の三連休の旅行では、もう少し一緒にいられるのかな」
そう思うと、少し心が浮き立った。
***
「りょーこう♪ りょーこう♪」
目の前では、グミがはしゃぎながらぴょんぴょん飛び回っている。そして、周りの迷惑だから大人しくしろと言って岳先輩が注意する声や、あんなにはしゃいで可愛いわねと笑うめーちゃんの声が響いていた。
軽音部では、設立当初から『十一月の三連休に部員だけで旅行に行く』という慣習がある。なので、今年も例年通り旅行に行く事になった。
今までは関東地方のどこかだったんだけど、今回は文化祭のステージが例年以上に大人気だった事と、生徒会主催の人気投票で一位になれたご褒美という事で(賞金も少し出たし)、関西……京都にまで足を延ばす事になった。
「京都なら、ずっと住んでたから色々案内できると思うよ」
そう言って下さった海斗先輩の存在も大きかったのだろうけど。海斗先輩には地元ならではの学生に優しい宿とか、美味しいお店とか、そういうお得情報をたくさん提供してもらった。
「未来! 向こうでは美味しいものたくさん食べようね!」
普段から部室に入り浸り、副部長の妹でもあるという事で毎年くっついてくるグミは、とても爽やかな笑顔を浮かべながらそう言った。
「そうだね……でも、お店の在庫状況考えてあげてよ」
「え、ちょっと、どういう事よ!」
「グミの食欲は天井知らずだから……」
そう答えた後で、なにそれと抗議するグミを視界の端に追いやり、駅の様子を眺めていると……ついつい海斗先輩を目で追ってしまっていたらしく、先輩と目が合った。
「未来ちゃんは京都に行くの初めて?」
いつものように微笑みながら、海斗先輩は話しかけて下さった。でも、先日先輩の事を好きだとはっきり自覚してしまったから……そんな普段通りの何気ない仕草にさえ、どきっとして心臓が跳ねてしまう。
「あ、えっと……前に家族で行った事が、一度だけあります」
「へぇ、いつ頃?」
「今年の八月に、二泊三日で」
「……あれ、結構最近?」
「はい。夏休みの事ですから……そうですね、最近です」
「そっか。楽しかった?」
そう聞かれて、思わず言葉に詰まってしまった。確かに、旅行は楽しかった……二日目の、午前中までは。
「ええと……楽しかった事は楽しかったんですけど、旅行の最中に持ち物を失くしてしまって。それが、私にとってとても大切なものだったから……帰ってきてからも少し落ち込んでしまってました」
「え? そうなんだ……それは残念だったね」
眉尻を下げた、労わるような視線を向けられる。どうしよう、気を遣わせちゃったかな……。
そう思った私は、慌てて付け加えた。
「でも、京都の町並みはとても綺麗だったし、お寺とかも趣があっていいなって思っていたので、今回行けて良かったです。前の旅行じゃ全部は見られなくて、また行きたいと思ってましたし」
付け加えた私の言葉に、先輩の表情が元通りになる。いつも通りの穏やかな表情で『それなら良かった』と言って下さった。
どの辺りを見ていたのかという話になったので、金閣寺と銀閣寺に行った話や五条通りを歩いたという話をした。そして、一通り話し終えた所で……不意に真顔になった海斗先輩に、別の質問をされた。
「何だったの?」
「……え?」
「未来ちゃんが失くしたもの。何だったの?」
何で今それを聞くのだろうとは思ったけれど、別に隠す事でもない。なので、正直に答えた。
「イヤリングなんです。片方だけだったんですけど」
すると、イヤリングと言った瞬間海斗先輩が目を見張った。一体、どうしたというのだろう?
「あの、さ……どんなの? 形とかは……」
「形ですか? そうですね……ガラスのハイヒールを模したものなんです。それこそ、童話のシンデレラが履いていたような」
そう言った瞬間、今度こそ海斗先輩の顔が驚愕の色をはっきりと映した。
「……先輩、どうされたんですか?」
「ああ、いや……何でもないよ」
「……そうですか」
明らかに狼狽していると分かる表情だったけれど……その後も、理由を教えてもらえる事はなかった。
***
「さあっ、皆の衆。このくじを引きたまえ」
部内旅行二日目。昼食を食べ終えた後に重々しい口調でそう言いながら、芽衣子さんは手に持っていた箱をどんっと机の上に置いた。
「えっと……芽衣子さん。これ、何のくじ?」
「あ、そっか……海斗は知らないわよね」
そう言って、芽衣子さんは周囲を見渡した。そして、未来ちゃんに視線を向ける。
「未来が海斗に説明してあげなさい。その間に他の人はくじ引いて」
「ええ!?」
驚く未来ちゃんに向かってそう言い放つと、芽衣子さんは反論は聞かないと言いたいのか、すぐに未来ちゃんから目線を逸らして他のメンバーに呼びかけ始めた。
「え、と……教えてもらえる? 未来ちゃん」
「あ、はい」
いきなりの指名で驚いたからなのか、少し顔を赤くした未来ちゃんはゆっくりと口を開いた。
「あの……日帰りでも、泊りがけでも、部員皆で出かけた時は……こんな風にくじをするんです。二人組を作るために」
「二人組を作る?」
「はい。くじで二人組を作って、その二人で観光したり遊んだりして親睦を深めましょうって事で。人数が増えると、どうしても一緒にいる人が偏っちゃうからって……」
「なるほどね。」
「毎年秋旅行は二泊三日だから……二日目の午後は二人組で行動しているんです。だから『今回もいつも通りやるわよ』ってめーちゃん言ってて、それで……」
「そっか。ありがとね」
お礼を言うと、未来ちゃんは照れたように微笑んだ。そして、軽く会釈すると自分もくじを引きにいった。
「aってだれー?」
「俺、bだ」
そんな会話が聞こえてくる。そういや、俺まだ引いてなかったな。
「芽衣子さん、くじもらえる?」
「ええ。じゃあここから引いて」
そう言われて差し出された箱から折りたたまれた紙片を取った。開いてみると、そこに書かれていたアルファベットは『d』の文字だった。
「あの、海斗先輩」
前の方から声をかけられたので顔をあげてみると、そこには……俺の顔を下から覗き込むようにして見上げている未来ちゃんがいた。
「私は『c』だったんですけど、先輩は何でしたか?」
「俺? 俺は……これ」
そう言って、紙片の文字を見せる。一瞬……未来ちゃんの表情が陰った気がした。どうしたんだろうと思って口を開きかけたその時、横から瑠華ちゃんが現れた。
「未来ちゃんが『c』?」
「うん。あれ、瑠華さんも『c』?」
「ええ。ほら」
そう言ってひらひらと紙片を振ってみせる瑠華ちゃん。未来ちゃんと二人きりなんて初めてねと笑いかける瑠華ちゃんに向かって、未来ちゃんもそうだねと答えている。
そんな二人をぼんやりと眺めていると、不意に後ろから肩を叩かれた。
「ねえ、海斗が『d』?」
振り返った先にいたのは、眼鏡をかけた芽衣子さん。朝食の時、眼鏡なんて珍しいねと話を振ると『普段はコンタクトなんだけど、旅行中は荷物減らしたいし面倒だから、二日目以降は眼鏡かけてるの』って教えてくれた。
そして、色違いのフレームで作ったおそろいの眼鏡を未来ちゃんも持っているらしい。軽い近視で、授業中はかけているのだとか。
「そうだよ」
「そうなのね。それなら、回る場所の打ち合わせをしましょうか」
「うん」
ついて来てと言われたので、言われた通りに芽衣子さんの後をついていく。ふと周りを見渡してみたが、誰もいなかった。他のメンバーは既に出発したようだ。
旅館のロビーでペットボトルの飲み物を飲みながら、どこに行く、何をする等の話を進めていく。と言っても、俺は相槌を打ってルートの提案をする位で、もっぱら予定は芽衣子さんが提案したものだ。特に反対する理由もなかったので、すんなりと予定は決まっていった。
「それじゃ、これで行きましょうかね」
「うん、それなら回りきれると思うよ」
「助かったわ」
芽衣子さんは、満足そうに計画表を眺めている。書類を眺めながら考え事をしているその様は、正直高校生には見えなかった。
「次の作品のために、どうしても回っておきたくて。やっぱり地元の人間がいるのは大きなアドバンテージね。今度絵里奈も京都行くって言ってたから、その時も協力してあげてくれない?」
「日乃元さん? 次の原稿の取材とか?」
「ええ。文化祭の時の話の続きを書くって言ってるんだけど、その参考にしたいからって」
「文化祭の……って、ああ、あれね。あのノベライズ」
「続編をバレンタイン特別号に載せるって言ってたわ。続きが読めるって鈴と未来がはしゃいでたわね」
「へぇ……」
文化祭でサンドリヨンの前に歌っていた、とある一曲。その曲を歌う事になったのは、芽衣子さんの友人で部長仲間の日乃元絵里奈さんに提案されたからなのだそうだ。
何でも、日乃元さんは中一の頃から軽音部、特に岳の大ファンなのだとか。毎回欠かさずにライブを見に来ていて、ちょこちょこ差し入れもしてくれているらしい。芽衣子さんは作詞作曲を中学生の頃からしているらしいが、歌詞が浮かばない時は日乃元さんに頼んでいると言っていた。
岳のファンならその彼女である瑠華ちゃんの事はどう思っているのだろう、なんてちらっと考えてしまったが、日乃元さんは瑠華ちゃんとも楽しそうに話していた。二人の仲も良好らしい。
そんな日乃元さんに、芽衣子さんは瑠華ちゃんが帰国した時の出来事を話したそうだ。すると、その二週間後『新作書いたの! 今度の文化祭増刊号に載せるつもりなんだけど、その時によかったら元になった曲歌ってほしいなって思って』と言って、印刷した原稿を持って日乃元さんが軽音部の部室に現れた。
そして、それを読んだ芽衣子さんがその話を気に入って『それなら岳と瑠華、あとは……もう一人のメイン登場人物の未来にも歌わせるわ』と約束し、三人で歌う事になったという。歌ってもらえるなら歌詞割りとか衣装はこちらで準備すると言うので、文化祭前日乃元さんはよく軽音部の部室に出入りしていた。その伝手で、俺も彼女と話すようになった。
「確かに、あの話の舞台は古都っぽかったもんね。衣装も和服チックだったし」
「そうね。それにしても、あの曲をああいう風なお話にするなんて……あの子の頭の中はどうなっているのかしらね」
「原作の雰囲気とはかなり違ってたもんね。まぁ、歌詞の解釈の仕方なんて聞いた人の自由だとは思うけど……」
「そうだけど……それにしても、よくあんなに考えつくものだわ。執念って凄いわね」
「執念て。あ、もうすぐ電車来る時間だし、とりあえず出発する?」
「もうそんな時間なの? じゃあ行きましょうか」
その言葉を合図に、俺達も出発する事にした。
***
「ふふ、うかない顔ね。他の人の方が良かった?」
ぼんやりと道を歩いていると、一緒にいた瑠華さんが私の顔を覗き込んで、笑いながら話しかけた。
「あ……ごめん。ううん、そんな事ないよ」
「なら、いいけど。さっきから心ここにあらずって感じだったから」
「あ……ちょっと、考え事してて」
「考え事?」
「うん……っていっても、大した事じゃないの。だから、大丈夫だよ」
「そう? じゃ、せっかくのデートだもの、楽しみましょ?」
「そうだね!」
せっかく一緒に出かけてるんだもん、楽しまなきゃね。瑠華さんと二人で出かける事って、今までなかったし。
「次はどこに行こうか?」
「そうねぇ……ちょっと行ってみたいお店があるの。そこでいい?」
「いいよ。どこ?」
「扇子を売ってるお店なんだけどね……」
二人で地図を覗き込む。今いる場所からだと、少し離れているようだ。
「バスか地下鉄に乗って行こうか。この距離じゃ、歩くのはちょっときついよね」
「そうね。じゃあ……まずはこの坂を下りましょ」
私達二人が最初に来たのは、清水寺。やっぱり京都観光なら外せないよねって事で来てみたのだ。
参道から続いている商店街の店を、二人で眺めながら歩いて行く。すると、よく見知った顔を発見した。
「あれ、岳先輩じゃない?」
「ほんとね……あら? あのお店ガラス細工のお店かしら?」
「多分。入口にガラスのタヌキが置いてあるし」
「それなら、岳……部屋に飾れるような置物でも探してるのかもしれないわね」
「置物? オブジェとか?」
「たぶん、そんなの。岳の部屋シンプル……と言うより、物が少なくて殺風景だから。何か飾ってみたらって前から言ってたの」
「ふーん」
「あら、そうなると……蓮君は岳に付き合ってくれてるって事よね。何だか悪いわねぇ」
そういや、今日の岳先輩の相方は蓮君だったね。
「蓮君もああいうの好きみたいだし、大丈夫じゃない?」
「そうなの?」
「鈴が言ってたんだよね。前に二人で甘味屋巡りしてる時に、蓮君がちょっと寄りたいって言って、向かったお店が……可愛い雑貨屋さんだったんだって」
「へえ……そうなのね」
感心したように頷いている瑠華さん。その視線は、楽しそうに話している男子二人組に向けられている。そして、そのうちの一人……岳先輩の方に視線を向けると、ふうっとため息をついた。もしかして、瑠華さん……私と一緒だったり、する?
「あのさ……」
確かめてみたくなって、隣にいる瑠華さんに呼び掛けた。なあに、とこちらを振り向いた瑠華さんは、いつもの表情に戻っている。
「瑠華さんは、さ……やっぱり、先輩と一緒が良かった?」
「先輩……岳と?」
「うん。ほら、やっぱり、旅先でも二人になりたい、とか……」
「別に、そうでもないわね」
あっけらかんと瑠華さんが答えた内容は、私の予想に反するものだった。意外といえば意外だ。先輩の方は、結構不満げに見えたから。瑠華さんと一緒になった私に対して、視線で何かを訴えていた気がする。
「岳となら、これから先二人で来る機会あるでしょうし。だから、一緒なら嬉しいけどそうでなくても問題ないわ」
「ふーん……そういうもの?」
「ええ。常日頃からべったり一緒にいるものでもないでしょう? きちんと自立してなきゃ、負担や迷惑になっちゃうし……少しは離れていた方が、次に会えた時は嬉しいもの」
「そっか」
そう考えられる瑠華さんは、やはり大人だと思う。まぁ、その理屈で言えば岳先輩の方が子供になっちゃうけど。二人は仲良しだけれど、全部が全部同じ意見って訳でもないらしい。
「まぁ、それでも、もう……さすがに一年は離れたくないけどね」
「あぁ、そりゃ一年間は長いよね……」
苦笑しながらそう答えた。確かに、二人は一年間太平洋を挟んだ距離にいたのだから『少し』の域を飛び越えている。そもそも、日本国内であっても一年離れていたら寂しいものだろう。まして……大好きでたまらない、最愛の恋人であったなら。
それでも岳先輩は瑠華さんをアメリカへ送り出したのだ。『俺はきちんと待っているから、頑張ってこい』と、そう言って。彼女の夢を応援した。
先輩は凄いなあってしみじみと感動しながら、持っていたペットボトルのお茶をごくごくと飲んだ。十一月下旬とはいえ、歩き回っていたらやっぱり喉が渇く。
「長かったわねぇ……あ、だからかしら」
「?」
まだ口を付けていたので、視線だけを瑠華さんに向けた。すると瑠華さんは、ごくごく普通と言った表情で、世間話でもするかのような自然な口調で……盛大に惚気た。
「岳ね……寂しかったからなのか知らないけど、私が帰国してから一週間はずっとうちに泊まってたの。最初の三日間なんて、ほとんど抱きしめられたままで家からも出してもらえなかったわ。でもね……ふふ、ずっと二人きりで嬉しかった」
「ぶはっっ」
飲んでいたお茶を盛大に吹き出してしまった。げほごほとむせている私の背中を、瑠華さんがさすってくれる。
「大丈夫? 未来ちゃん」
「だ、大丈夫……」
愛しい彼女を一年外国に送り出せる度量の深さはあっても、離れていた事自体はやっぱり寂しかったらしい。でも、そんな事をさらっと言うなんて……やっぱり、瑠華さんは帰国してからデレやすくなった気がする。
「まぁ、大学はそのまま音宮に行くつもりだし、しばらくは日本にいるつもりよ。一カ月位の短期留学は行ってもいいかなって思っているけどね」
「大学かぁ。全然想像がつかないや。んー、でも、私はこのままいけば……音宮大学のどこかの学部だろうけど」
でも、音宮大は総合大学だから学部がいっぱいある。その中から四年間通いたいと思う所を見つけないといけないのだ。悩むなぁ。
「めーちゃんは外部受験するって言ってたけどね」
「あら、そうなの。音楽関係だったかしら?」
「そう。小学校の頃から言ってたもん、私は作詞作曲が出来る音楽プロデューサーになるのって」
「へぇ、そうなのね」
「うん。でね、初めてそう聞いた時に……『なりたい』じゃなくて『なるの』って言い切っためーちゃんは凄いなって思ったのを、今でも覚えてるよ」
「芽衣子さんらしいわね」
「うん、めーちゃんらしいよね」
そう言って残ったお茶を飲み干した。そして言葉を続けていく。
「めーちゃんはそのための努力だって欠かさないの。あの成績キープしながら音楽の勉強もして、曲作って動画サイトで発表したり、オフラインで活動したり」
こつこつと足元から音がする。今回の旅行では、ちょっと背伸びしてヒールのあるショートブーツを履いてきたんだ。
「めーちゃん凄いんだよ。作った動画は再生数十万回余裕で超えるし、中学の時からプロの人と一緒にプロジェクト立ち上げて活動してたりするんだもん」
め―ちゃんの活動に、私や鈴も時々協力していた。鈴は絵を描いたりお菓子作るのが上手いから、動画のイラストを書いたり差し入れのお菓子を作っているけど、私は主にめーちゃんの作った歌を歌う役目だ。
基本めーちゃんは動画を作る時、歌は自分で歌ってるんだけど……時々は、未来の声の方が合うからお願いって頼まれて、代わりに私が歌う事があった。オフラインでライブをする際のコーラスを頼まれて、それに参加した事もある。
「それはすごいわね。その道で働いている人となんて……大変だろうけど、でも、やりがいも大きいのでしょうね」
「うん。『楽しい、やっぱり私にはこれが合ってるわ』って、そう言ってたよ。そりゃね、め―ちゃんがそっちの方に進むなら外部受験しなくちゃならない訳で、そうすると学校とか離れちゃうからそれは淋しいけど……それぞれが自分のやりたい事をするべきだって、思うし」
「音宮にも音楽関係の学部があったら良かったわね。そうしたら大学も一緒だったでしょ?」
「うん。でも……鈴は音宮短大の家政科に行きたいって言ってたし、どのみち高校卒業したら進路はばらばらだろうな。まあ、家は隣同士だし離れてたって三人仲いいのは変わんないんだから、別にいいけど」
「進路は自分で決めないといけないものね。自分の人生なんだから、自分で責任取らないと」
「そうだよね……」
既に将来の夢を持っている二人に対して、私はまだまだ不透明。見えない未来に沈む心を、ふうっとため息をつく事で逃がしていった。
***
「しけた顔してるわねぇ。そんなに未来の方が良かった?」
「ごふっっ!!」
呆れたとでもいうような声音で、芽衣子さんがさらっと爆弾を落とした。半眼になっている彼女は、持っていたストローでからからと飲み物を混ぜている。
「え、ちょ……いや、そんな事は……」
「盛大に噴き出しておいてよく言うわ。図星だったんでしょう」
「う……」
そう言われると反論出来ない。別に芽衣子さんが云々って訳ではないし、話していて楽しいのも事実だけど、出来るなら……って思ったのも、また事実だ。
でも、なんでそこまで分かったんだろう。
「……何で分かったんだって顔してるわね」
これまた図星を刺されて、どきりと心臓が跳ねる。冬も近づいてきて寒くなってきているのに、背筋に冷や汗が伝った。
「芽衣子さん、超能力でも使えるの?」
何でも出来る、完璧超人との呼び声も高い芽衣子さんなら本気で使えそうな気がするけど。でも、そんな俺の言葉を芽衣子さんは一蹴した。
「んな訳ないでしょ。あんた達が分かりやすいだけよ」
はあっとため息をつきながら、芽衣子さんはそう答えた。
「分かりやすい……え、あんた達? 俺だけでなくて?」
まさか向こうも……何て淡い期待をしていたら、続けられた言葉でこれも一蹴されてしまった。
「岳も瑠華と一緒になった未来を、羨ましそうな目で見ていたもの。瑠華の方はあんま気にしていないみたいだったけどね」
「ああ……そっち」
確かに、瑠華ちゃんの方は未来ちゃんと二人なのねって楽しそうだった。そういう所は温度差のある二人のようだ。
「蓮は蓮で、帰りの新幹線では鈴の隣がいいって言ってきたし。ま、あの子の場合行きの隣は瑠華だったから、色々と気を遣ったり向けられる視線がいたたまれなかったりして大変だったんだろうけどね」
全く、うちの部の男どもは……なんてのたまう芽衣子さん。それをさ、俺の前で言わなくても。
「まあいいわ。ちゃらちゃらした男よりはよっぽどましよ。頑張ってうるさいハエどもを追い払ってきた甲斐があったわ」
そう言った芽衣子さんは、残っていた飲み物を飲み干した。
「さて、確認だけど」
机の上に肘をついて、顔の前で手を組んだ芽衣子さんがこちらに視線を向けた。
「確認?」
一口残っていた団子をほおばりながら芽衣子さんに視線を向ける。芽衣子さんはおもむろに口を開いた。
「あんたは未来が好きなんでしょう」
「うぐっっ!」
驚いたはずみで、団子が喉に詰まってしまう。どんどんと胸の辺りを叩きながら、一緒に頼んでいたほうじ茶を飲み干した。
「な、何でそれを……」
「言ったでしょう、あんた達は分かりやすいのよ。そうね……私の他にも、瑠華や岳、蓮辺りも気づいているんじゃないかしら」
「そ、そんなに? そんな分かる程顔に出してた、俺?」
「顔にというより……あんたは目で未来を追っていたから。視線の動きは、時に言葉よりも雄弁に本人の心を語るものよ」
「それはまあ、そうだと思うけど」
「だから、よく目が合う人の事を意識するんじゃない。目が合うって事は相手も自分の事を見てくれているからだって、相手も自分に興味を持ってくれているんだって、無意識のうちに分かっているから意識するんでしょ? 人間、興味のないものには見向きもしないじゃない」
「そういう事ね……」
「部長なんてやってると、部員達の様子にも気を配る必要があるから……そういうの気付きやすいのよ。去年もそうだったわ」
「去年?」
「岳と瑠華よ。あの二人も付き合うまではまごまごしてたから。その後は一直線だけどね」
「……全然想像がつかないや」
勝手な想像だけど、あの二人はスムーズに付き合いだしたんだろうなって思っていた。岳はストレートに想いを言うし、瑠華ちゃんも二人きりの時は素直だって言ってたし。まぁ、そう言っていたのは岳だけども。
「当時はじれったくってしょうがなかったわ。グミちゃんの協力がなかったら、あの二人は今頃どうなっていたのかしら」
当時を思い出したのか、懐かしむような声で芽衣子さんが語る。協力的な妹がいてくれて、あの二人は果報者だったわね、と笑いながら教えてくれた。
「だから、今回は私が協力してあげようと思ったのよ。でも、対価もなしに自分の妹分の事を教えるのは、気が引けるわね」
「芽衣子さん、そこをなんとか」
「うーん、そうね……そうだわ、お土産用の甘酒でも買ってくれたら、疑問には全て答えてあげるわ」
「疑問?」
「未来の事、色々知りたいでしょう?」
「それは、まぁ、もちろん」
「私はあの子の事を、あの子が生まれた時から知っているもの。食べ物の好き嫌いから、趣味特技に好きな男のタイプまで……あの子に関する全ての情報を握っているわ。だから、いろいろ教えてあげられると思うけど」
「……甘酒、どの種類にするか考えておいて。なんなら一升瓶でもいいよ」
そう答えると、少し経ってから芽衣子さんの手がこちらに差し出された。そして、どちらともなく握手を交わす。
取引は、無事成立したようだ。
***
「あら? 今度は海斗先輩と芽衣子さん?」
瑠華さんが行きたいと言っていた扇子屋さんで買い物した後、町をぶらぶらしていると……思わずといった口調で、瑠華さんが呟いた。先輩とめーちゃん? と思ってその視線の先をたどってみる。すると、二人が楽しそうに話している所だった。
「甘味どころみたいね。午後のおやつかしら、お団子美味しそう」
瑠華さんがのほほんとそんな事を言い出した。楽しそうねぇなんて、笑う声も降ってくる。
「……確かに、楽しそうだね」
視線の先では二人が楽しそうに笑い合っている。道路を隔てているから、二人ともこちらに気づく様子はない。私の好きな人が、私がいるのに気づかないまま、私には分からない話を別の女の子と楽しそうにしている。
たとえ、その人も自分にとってとても大切な人だとしても。大好きな、姉代わりの人であっても。二人きりでテーブルを挟んで楽しそうにしている姿は、見ていてあまり気持ちのいいものではなかった。
二人の楽しげな姿を見ているのは辛いのに、どうしてか目が離せなくて。そのままぼんやり眺めていると……めーちゃんが先輩の方に手を差し出した。めーちゃん、一体何を、と思ったその時には、もう。海斗先輩は、その手を握っていた。
(……息が、苦しい)
二人が、お互いをじっと見て握手をしている。その光景は、私から平常心を奪っていった。呼吸をするのは、こんなに難しい事だっただろうか。喉というのは、こんな簡単に干上がるものであっただろうか。
大きく息を吸おうとして、胸元に手を当てる。けれど、自分の掌を意識した事でさっきの光景が脳裏に蘇って、心臓が握りつぶされるような心地がした。
「あらあら、二人ともどうしたのかしら」
不思議そうな顔をしている瑠華さんの横で、泣きそうになっている自分がいた。ううん、もう、目頭が熱い……。
「先輩、めーちゃんの手ならためらわずに握るんだ」
「え?」
「私の時は、あんなに、ためらっていたのに……」
「未来ちゃん?」
「やっぱり、男の人は……めーちゃんみたいなしっかりした女性の方が、大人の女性の方が、良いものなのかな……。私なんかじゃ、高望み、だったのかな……」
ひとりでに頬を伝う涙を、止める事は出来なかった。
***
「ん? 電話?」
夕飯を食べた後に温泉につかり、男子部屋に集まって皆で騒いでいると……手元にあった携帯電話が震えだした。
「ごめん、ちょっと電話に出てくるね」
女将さんにもらった甘酒を幸せそうに飲んでいる芽衣子さんや、それをおちょこ一杯飲んだだけで潰れてしまった(甘酒なのに)恋人を介抱している瑠華ちゃん、追加デザートという事で午後の戦利品を食べているグミちゃんや鈴ちゃん達のいる方にそう声をかけて、俺は部屋を出ていった。
「もしもし?」
ロビーに出た辺りでボタンを押して電話に出る。電話をかけてきたのは母だった。今までに友人と泊りがけの外出をする事がなかったので、様子が気になったようだ。
昨日今日の様子を聞かれるままに答え、明日の夕方には東京に戻るよと言って電話を切った。
「……この辺はまだ残ってるんだな、紅葉」
ふと窓の外を見ると、半分位は葉を残した紅葉の木が映っていた。夜目にも分かる鮮やかな赤色が、ひらりひらりと舞い落ちていく。
舞い落ちていった紅葉の葉を追いかけて、落ち葉が積もっている地面にも目をやったけれども、何となく……物悲しいような、胸が押し潰されるような心地がして。そんな苦しさから逃げるように、目の前の赤から目を逸らした。
昔から、赤い床や地面を見るのは好きではない……というより、正直嫌いだった。小さい頃に何かあったとか、そういう訳ではないけれど。物心ついた時から、見ているだけで訳もなく悲しくなるので、見るのが嫌だったのだ。
「あ……海斗先輩。ここにいらしたんですね」
俯いて負の感情をやり過ごそうとしていると、聞いているだけで心が晴れやかになるような、澄んだ声が俺の名前を呼んだ。
「未来ちゃん? どうしたの?」
「えと、あの……めーちゃんが探してきてって。電話だけなのに遅いって言って……」
「そっか。わざわざありがとね」
そうお礼を言うと、未来ちゃんは笑顔になった。やっぱり、彼女には笑顔が似合う。
「……ちょっと話さない? そんなに時間は取らせないから」
笑顔の似合う彼女が、夕食中ずっと俯いて浮かない顔をしていた。気になってはいたけれど、流石に皆でご飯を食べてる途中に聞く訳にもいかず、心配していたのだ。
「……分かりました」
未来ちゃんはぱちぱちと目を瞬かせながら、驚いたような表情で答えた。了承が得られたので、ロビーのソファへと誘導する。二人で並んで座れるようなソファしか空いていなかったので、彼女には隣に座ってもらった。
しかし、いざ聞けるとなった所で……どう切り出したらいいものかを全く考えていなかった事に気づいた。上手い言葉や科白が出てこず、時間だけが空しく過ぎていく。
「あの……何か、私にご用があったんですか?」
色々考えすぎて黙ったままの俺を気遣ったのか、はたまた押し黙ったままの重苦しい空気に耐えかねたのか、未来ちゃんの方から口を開いてくれた。自分情けないなあ……と思いつつ、せっかく彼女が切りだしてくれたのだからと、俺の方も口を開く。
「あの……午後に何かあったの?」
「え?」
「夕飯食べてる時……未来ちゃん浮かない顔してたから、気になって。何かトラブルでもあったのかなあと思って、さ」
「トラブル、ですか……」
そう呟くと、未来ちゃんは口元に手を当ててうーんと唸りだした。その表情が段々沈んでいくので、無責任だったかと少し後悔していると、未来ちゃんは顔を上げて寂しそうに微笑みながら口を開いた。
「午後に瑠華さんと町を回ってて、その途中に将来の話になったんです。瑠華さんは大学に入ったらやってみたいって言っている事があって、鈴も既に将来の夢があるし、めーちゃんは夢通り越して目標になってて、岳先輩も蓮君もぼんやりとではあるけれど決まってるって前に言ってて……」
「へぇ……皆すごいね。俺なんて、法律に興味があるから法学部を受けてみようかなって事位しか考えてないや」
「そうなんですね。でも、私は……ほんとに、何にも決めてないんです。文理すら決めてなくて」
「まだ一年だし、そこまで焦らなくてもいいんじゃないかな? 特に、音宮は決めるの他のとこよりも遅かったよね?」
「はい。音宮は高三になってから文理分かれるので、他の公立よりは遅い方です。でも……私の周りでは、既に決まってる人の方が多くて。だから、それに向けて今から頑張っている人も多いのに、私だけ何にも考えてなくて……」
ぽつりぽつりと。未来ちゃんは言葉を紡いでいった。
「めーちゃんとか鈴は、悩んでるなら音楽関係にいったらいいって言ってくれるんです。未来は歌が上手いから、未来の歌は聞いている人を感動させる力があるんだからって。だから、歌手になるといいって、言ってくれるんです」
「俺もそう思うけどね。皆から『歌姫』なんて言われてる位なんだからさ」
そう返答するけれど、未来ちゃんの表情は相変わらないままだった。
「……でも、二人はそう言ってくれるけど、歌姫なんて言われているけど。私なんかじゃ……芸能界ではやってけないですよ。もともと、歌姫なんて私には過ぎた名前ですもん」
「別に、そんな事は……」
「いいえ、そうですよ」
何時になく、はっきりとした口調で未来ちゃんがそう答える。声に、諦めと自嘲が混じっているような気がした。
「こんな、人見知りで、容姿だって人並みで」
「未来ちゃん」
「未だに中学生に間違われるような子供っぽい私に、そんな」
「そんな事、言っちゃだめだよ!」
やりきれなくて、思わず彼女の言葉を遮るように叫んだ。何でそんなに自分を卑下するのだろう。未来ちゃんは、君は、誰よりも歌姫という呼称が似合う女の子なのに。歌が、歌う事が、似合う子なのに。
「そんな風に言うものじゃないよ! そりゃ、どんなプロだって自分に自信が持てないって不安になる事はあるだろうし、謙虚さは忘れちゃいけないけれど、謙虚さと自分を貶めるのは違う事だ! 一番自分を信じてあげられるのは自分なんだから、未来ちゃんには好きだって言ってくれるファンがいるんだから、だから、そんな……悲しい事、言わないでくれよ……」
叫んだ勢いのままに彼女の肩を掴んで、目尻に涙をにじませた大きな青い瞳を見つめて、必死の思いで告げた。
「……先輩」
拍子抜けした、という表現がよく似合うような表情で、心底驚いているといった表情で、目の前の彼女は俺を呼んだ。そういえば肩を掴んだままだったので、力を抜いてゆっくりと手を外した。
「……ごめん。いきなり怒鳴って、肩まで掴んじゃって。驚いたでしょ?」
嫌われたらどうしようなんて不安が頭をよぎる。しかし、発した言葉は、告げた言葉は、無かった事には出来ない。
「あの、驚いた事は驚いたんですけど……」
潤んだ瞳がこちらに向けられる。こちらを見上げた未来ちゃんは、目が合うと……本当に嬉しそうに、にっこりと笑った。
「ありがとうございます。そんな風に言ってもらえて……不謹慎ですけど、そんな風に一生懸命言ってもらえて、嬉しかったです」
目の前で、涙目ではにかむ未来ちゃん。ほら、やっぱり。彼女には笑顔が似合うじゃないか。
そう思ったら、止まらなくて。無意識のうちに彼女の細い肩に腕を回して、そのまま……華奢な体を、きつく抱きしめた。
(続)