彼と料理とホワイトデー
- 2019/08/20
- 01:15
バレンタインとくれば、お次はホワイトデーじゃないですか???(・ω・)
「ホワイトデーのお返し?」
「うむ。バレンタインの時には美味しいお菓子をもらったからな。きちんと返礼をせねば男が廃る」
腕を組んでうんうんと頷きながら、目の前の恋人がそんな事を言い出した。そういえば、バレンタインに贈り物をもらった場合は一か月後のホワイトデーにお返しをするものなのだと、マスターが言っていた気がする。彼女は、何がいいだろうかと言って難しい顔をしていた。
「返礼、ねぇ……」
「何か欲しいものはないか? 物でなくとも構わないが」
「欲しい、もの……」
人々に神の愛を、人々に幸福を。そんな信仰一筋で生きてきたので、これといって欲しいものが浮かばない。強いて言えば、神の教えを皆が確認したい時のために何冊か聖書があればいいのかもしれないと思うが、仏教や神道の国で育った彼に頼むのは筋違いだろう。
「物がいらないなら、ホワイトデーの日は二人とも暇をもらってずっと一緒にいてもいいぞ? そなたが望むなら、普段はなかなか出来ない恋人らしい蜜な事でも」
「そういうのはいらないわ」
「あ……左様でござるか……」
小次郎が、あからさまに肩を落とす。イベントに便乗して場を盛り上げ『色々と』したかったかもしれないが、まだそれを許す気はない。その意思と理由は、今まで何度も伝えてきた。
しかし、それにも関わらず。彼は事あるごとにこんな調子なので、男の頭の中には色事の事しかないのかとそろそろ辟易してきたところだ。まぁ、私は彼しか知らないので何とも言えないけれども。
ただ、最近はばらばらにレイシフトすることも多く、こうやって向かい合って話す時間が少なくなっていたのも事実だ。それに、まだ先の関係に進みたくないだけで、彼と一緒にいたくないわけではない。皆といるよりも長く一緒にいたいと思ったから、恋人になると答えたのだ。
「……なら、和食を」
「和食?」
「バレンタインのお返しに、和食の作り方を教えてよ。あなたが作ってる所見てみたいし」
料理は出来る方だが、私が作れるのは西洋料理だ。それでも彼は美味しいと言って食べてくれるが、どうせなら彼の母国の料理も振舞ってみたい。
「それは構わんが……それなら、ほかに適任者がいるような気がするが」
「単純な作り方ならエミヤの方が詳しいでしょうけど、あなたの好みを知るにはいいでしょ。一般的な味付けと貴方の好みの味付けは、また別じゃない」
「……ふむ」
顎を抑えて、小次郎が頷いた。どことなく嬉しそうに見えるが、私が和食の作り方を覚えたいと言うのがそんなに嬉しいのだろうか。
「あいわかった。なら、明日の昼でも良いか? 今日はもう遅いから」
「いいわよ。準備とかもあるだろうし、カルデア内の食事に影響してもいけないし」
「なら、決まりだな」
そなたに作ってほしい献立を考えておく、と言いながら。彼は私の肩を引き寄せた。
***
次の日、昼食の後片付けを終えたキッチンに向かうと、小次郎が材料をあれやこれやと引っ張り出しているところだった。
「何作るの?」
「ありふれた内容ではあるが、肉じゃがとがめ煮をな」
「……煮物?」
「まぁそんなところだな。私の時代の料理ではないが、以前食べた時に美味であった」
「生前知らなかったのなら、どこで知ったのよ?」
「それは、ほら。私は先の聖杯戦争でも召喚されていたからな。現代の事情にもある程度は通じておる」
「ふーん……」
私の知らない、彼の姿。思うところがない訳ではないけど、過去に召喚された彼と今目の前にいる彼は、起源は同じでも別人だ。別の世界の彼が何を思って、誰と過ごしてきたかなんて、今ここにいる私には関係ないはずなのに。
それでも、心の内が少しだけ曇る。うまく笑えないまま彼の方を見ると、彼は不思議そうな表情になった。
「気にしないで続けてちょうだい。ここを使える時間はあまり長くないんだし」
「……そうだな」
では始めようか。そう言って包丁で芋の皮剥きを始めた彼の手の動きを、ぼんやりと眺めていた。
***
「成程ね。どちらも、材料の切り方と煮る順番を間違えなければ失敗することはなさそう」
「そうだな。後は、調味料の分量位だが……目分量でも案外上手くいくものだし、割合だけ覚えておけば大丈夫であろう」
そなたは料理が上手いからな。鍋の火を消しながら、彼がそう褒めてくれた。それにお礼を返しながら、鍋の中を覗き込む。
「作ってるの見たら、小腹が空いてきちゃったわね」
「白米が少し残っていたから、握り飯でも作ろうか。具材が見当たらないから塩結びになってしまうが」
「構わないわ。ありがとう」
そう言うと、ではと言って彼はあっという間におにぎりを作っていった。身の回りの事は全て自分でしていたから、家事炊事は一通り出来るぞと言っていたが、確かに料理中も手際が良かったと思う。剣の道を極めるために、一人修行に明け暮れた。する人がいないから、全部自分でやっていた。つまりは、そういう事なのだろう。
「ん、出来たぞ」
そら、と渡されたおにぎりを黙々と食べていく。ちらちらと視線を寄越してくるので、美味しいわよと返しておいた。
「塩少ないんじゃないかと思ったけど、結構しっかり味が付くのね」
「塩や砂糖は、微妙な差で大きく味を変えてしまうからな。それだけを使う時は、少ないかもしれないと言う位が丁度良いと思うぞ」
「覚えとくわ」
最後の一口を食べ終えて、何気なく彼の方を向いた。目が合って、彼が唐突に笑い出して、何がおかしいのかと口を開きかけたその時。彼の顔がふっと近づいてきて、口の端辺りを……ぺろりと舐められた。
「っな……!!」
慌てて彼から顔を離し、体ごと距離を取る。耳と、頬と、頭が、一気に熱を持った。
「いきなり何するの! 不意打ちはやめてちょうだいって言ったでしょ!」
彼を睨みつけながら、まくし立てる。ぱくぱくと口を動かして声にならない言葉を発していると、彼はにやりと笑いだした。
「口の端に、米粒がついておったのよ。最初は指でとろうと思ったが、こうした方が恋人らしいかと」
「らしさとかいいから! 指で! 取って!」
「えぇー。せっかくの機会を逃すなんて、もったいないでござろう?」
「勿体なくない! あんたと違って、私はこういう事に慣れてないの! 心臓に悪い!」
「……別に、私の方も手馴れているとか、そういう訳ではないのだが……」
「どこがよ! 毎回毎回、そんなに私をおちょくって楽しいの!? もう、ほんといい加減にし……んむっ!?」
続きを言う前に、彼の熱に口を塞がれた。必死に抵抗するのに、熱はさらに深くなって、奥の方まで探られて。為す術もなく彼の思うままにされているというこの状況が、私の意志などお構いなしにねじ伏せられているこの状況が、恐ろしくなって。んんっと声を漏らしながら、自分の頬に涙が伝っていったのが分かった。
「……すまんな。泣かせるつもりはなかったのだが」
ようやく解放してもらえて、心底安心した。向こうも肩で息をしているので、苦しかったなら早く離してくれればよかったのにと恨めしい気持ちになってしまう。
「……嘘ばっかり」
多分、本当に泣かせるつもりはなかったのだろうけど。でも、泣いてしまった事で何かの箍が外れてしまったのか、心の奥底にあった負の感情が、ばらばらと浮き上がってきたような心地がした。
「嘘などついておらぬぞ」
むっとした顔で、小次郎が言葉を返してくる。でも、一度自覚してしまった恐怖や不安、憤りめいた感情を、抑える事が出来なかった。
「どこが? いつもいつも私の事からかってばかりで、軽口ばっかり叩いてきて。付き合う前と、何ら変わらないじゃない」
「それは……」
「からかって、軽口で本心をひた隠しにして、悟らせないで。この状況で、一体、貴方の何を信じろというの?」
「……マルタ殿」
彼の手が、私の頬に触れようとした。今みたいに二人でいる時ならば、普段は大人しく撫でられるのだけど。とてもそんな気持ちになれなくて、久方ぶりに彼の手を振り払った。
「貴方の手を取れば、核心に触れられるのかもって。見えなかった本心に触れられるのかもって。もっと近くにいたいと思ったから、貴方の手を取ったのに。ずっと長く一緒にいたいと思ったから、中途半端なままでは貴方を受け入れられないと言って、待っていてほしいとお願いしたのに」
「……」
彼の表情から、感情が消えた。止まらないと取り返しがつかなくなるような気がしたのだけれど、とても止まる事は出来なかった。言ってやらなきゃ、気が済まなかった。
「あの時の言葉も、単なる軽口だったの? 私はずっと、貴方に遊ばれていたの? 単なるお遊びだったから、先に進みたくないという私を、見限るつもりだったの……?」
「違う」
言ってやったと満足する気持ちと、言ってしまったと後悔する気持ちがないまぜになる。相反する気持ちが渦巻いて気分が悪くなってきた所で、凜とした低い声が耳元で響いた。そして、強い力で抱き締められる。その温かさが、渦を巻いた負の感情を昇華していってくれた。
「違うんだ。そんな小難しい事は一切考えておらん。私がそなたをからかうのは、もっと単純な動機だ」
「……何だって言うのよ」
じとりと睨みながら問うと、彼は、視線から逃げるように私を抱き締めなおして、口を開いた。
「小さい子供は、親の気を引こうとして悪戯をするであろう? 私のそれもあまり変わらん。そなたに惚れているからこそ、気を引きたくて、こちらを向いてほしくて、ついついからかってしまうんだ」
「……そういうもの?」
「意識的であれ無意識であれ、男児は割合そういうのが多い。まぁ、私の場合は……そなたが恥ずかしがっている顔や怒っている顔も可愛らしいから見たい、という理由が多分に含まれているが」
「……そう、なの」
好きだからこそ、気を引きたい。方法は褒められたものではないが、その心理自体は分からないでもない。
「怒ってる顔が可愛いなんて、ずいぶんな悪趣味ね」
未だ慣れない誉め言葉が落ち着かなくて、可愛さの欠片もない言葉を返してしまう。私の事を可愛いなんて言うのは、ここでは彼くらいのものだ。その彼だって、最初の頃はそんな事言ってなかった。
「私は、花鳥風月を愛でる風流人と称される事が多い。趣味は良い方だと自負していたのだが」
「良くないわよ。こんな、未だに勝気の抜けない、素直さの欠片もない町娘なんて……」
「本当に素直でない人間は、反省して自己嫌悪するという事をしないものだ。それをしているのだから、素直でない事はないだろうよ」
「だけど、男の人って……素直で可愛い、自分の事を肯定して褒めてくれる、分かりやすい女の子が好きなものではないの?」
ぱらぱらと読んだ漫画や本で得ただけの、簡単な知識ではあるけれど。そういう傾向の女の子の方が、好かれている感じはあった。
「そうだな。人それぞれ好みは違うが、一般的にはそういった女子が好まれる傾向は確かにある」
「そ、れ、なら……」
「だから、私はそなたを選んだ」
「……は?」
この人は何を言っているのだろう。どこをどうしたら、そんな結論が出るというのか。
「意味が分からないんだけど。私、あんたを褒めた記憶ないわよ?」
おちょくられて腹が立ったから言語合戦に応戦したとか、しつこい手合わせ要求を片っ端から断っていったとか、気恥ずかしさで辛辣な言葉を浴びせてしまったとか、そんな事しか浮かばないのだが。自分で言うのもなんだが、選ばれる要素がまるでない気がする。
「マルタ殿は、素直で、可愛らしくて、分かりやすいではないか。そら、十分当てはまる」
あっけらかんとそう告げてくる彼の顔に、からかいの色は見られない。本気でそう思っているらしい。それは嬉しい。嬉しい、けれど。
「……本当に、悪趣味ね。私の事を可愛いという人なんてあんたくらいのものよ」
そんな言葉を呟き、彼の胸元に顔を埋めた。そんな悪趣味な風流剣士を好きになってしまった自分は、もっと悪趣味なのだろう。
「あんまり自分を卑下するものではないぞ。いつもの勝気はどこへ行った?」
不思議そうに問いかけながら、彼の手の平が私の頭を滑り、指が私の髪を梳いていく。それを嬉しいと思ってしまう位には、もっとしてほしいと思ってしまう位には、私は彼に絆されているのだ。
「卑下してるわけじゃないわ。ただ、不思議なだけ」
「不思議?」
「ここには、それこそさっきの言葉通りの女の子とか、剣の道に通じている女の子とか、日本出身の子もたくさんいるわ。それなのに、あなたが選んだのは私だった。生まれた国も、地域も、時代も、尊ぶものも、何もかもが違う私をね。接点がまるでないから、嬉しいけど不思議なんじゃないの」
ほんの少しの嘘を混ぜて、彼へ返答する。不思議だからという理由以上に、自分にはそこまで彼に好かれる要素があっただろうかと言う自信の無さがあるのだ。神への信仰ならいざ知らず、こういう方面で自信があった事なんて一度もない。
「……オルレアンで、そなたが敵として現れた事がある。その時の記憶はあるか?」
「あんまり。そういう事があったっていう位は知ってるけど、詳しい事はほぼ覚えてないわ」
覚えているのは、願望から生まれた黒い聖女をマスターとして召喚された事とその彼女の顔、無事に倒されて安堵した時の感情位だ。
「その時のそなたの言動がな。実に私好みだったんだ」
懐かしんでいるのがよく分かる声音で、そんな話が紡がれる。しかし、彼の好みに合った……と言う事は、その私は好戦的な性格だったのだろうか。そのあたりの事を詳しく聞いてみたいと思ったが、彼の言葉が途切れなかったので聞く機会を逃してしまった。
「だから、もっと話してみたい、知ってみたいと思っていたが……待てども待てどもそなたは呼ばれなくてな。先日のクリスマスにようやっと召喚されたと聞いた時には、マスターともども喜んでいた」
「……そう」
彼の手が、頭や髪以外の場所も撫で始めた。触れられた肩や腰のあたりがじんわりと熱を持つ。今くらいの接触でこれなら、それ以上を許してしまった時、私は一体どうなってしまうのだろう。
「……なら、私の心配は、取り越し苦労だった?」
「そうだな。言葉は悪いが、いらぬ心配だったな」
顔が見えないので表情からは探れないが、彼の声音の落ち着き具合や触れる腕の力強さが、今の言葉が真実であると裏付けてくれている。私の方も彼の背に腕を回すと、嬉しそうな吐息が耳に触れた後で、さらに強く抱き締められた。
「……これを要らぬ心配、と言うなら。今度からは心配させるような事しないでよ?」
そのまま素直に引き下がるのは癪なので、一応釘をさしておく。あんまりからかいが過ぎると、気持ちが離れる一因になりかねないんだからねと告げると、彼は重苦しい声で呻くように返事をした。
「私の方も、二人でいる時だけっていう前提はあるけど……あなたが、不意打ちしてきても余裕で笑っていられるように、慣れるように努力するから」
だから、もう少しだけ待っていて。そう言って、初めてこちらの方から触れ合わせる。口を離した後で見た彼の顔は、夕日のように赤くなっていた。
(完)
「ホワイトデーのお返し?」
「うむ。バレンタインの時には美味しいお菓子をもらったからな。きちんと返礼をせねば男が廃る」
腕を組んでうんうんと頷きながら、目の前の恋人がそんな事を言い出した。そういえば、バレンタインに贈り物をもらった場合は一か月後のホワイトデーにお返しをするものなのだと、マスターが言っていた気がする。彼女は、何がいいだろうかと言って難しい顔をしていた。
「返礼、ねぇ……」
「何か欲しいものはないか? 物でなくとも構わないが」
「欲しい、もの……」
人々に神の愛を、人々に幸福を。そんな信仰一筋で生きてきたので、これといって欲しいものが浮かばない。強いて言えば、神の教えを皆が確認したい時のために何冊か聖書があればいいのかもしれないと思うが、仏教や神道の国で育った彼に頼むのは筋違いだろう。
「物がいらないなら、ホワイトデーの日は二人とも暇をもらってずっと一緒にいてもいいぞ? そなたが望むなら、普段はなかなか出来ない恋人らしい蜜な事でも」
「そういうのはいらないわ」
「あ……左様でござるか……」
小次郎が、あからさまに肩を落とす。イベントに便乗して場を盛り上げ『色々と』したかったかもしれないが、まだそれを許す気はない。その意思と理由は、今まで何度も伝えてきた。
しかし、それにも関わらず。彼は事あるごとにこんな調子なので、男の頭の中には色事の事しかないのかとそろそろ辟易してきたところだ。まぁ、私は彼しか知らないので何とも言えないけれども。
ただ、最近はばらばらにレイシフトすることも多く、こうやって向かい合って話す時間が少なくなっていたのも事実だ。それに、まだ先の関係に進みたくないだけで、彼と一緒にいたくないわけではない。皆といるよりも長く一緒にいたいと思ったから、恋人になると答えたのだ。
「……なら、和食を」
「和食?」
「バレンタインのお返しに、和食の作り方を教えてよ。あなたが作ってる所見てみたいし」
料理は出来る方だが、私が作れるのは西洋料理だ。それでも彼は美味しいと言って食べてくれるが、どうせなら彼の母国の料理も振舞ってみたい。
「それは構わんが……それなら、ほかに適任者がいるような気がするが」
「単純な作り方ならエミヤの方が詳しいでしょうけど、あなたの好みを知るにはいいでしょ。一般的な味付けと貴方の好みの味付けは、また別じゃない」
「……ふむ」
顎を抑えて、小次郎が頷いた。どことなく嬉しそうに見えるが、私が和食の作り方を覚えたいと言うのがそんなに嬉しいのだろうか。
「あいわかった。なら、明日の昼でも良いか? 今日はもう遅いから」
「いいわよ。準備とかもあるだろうし、カルデア内の食事に影響してもいけないし」
「なら、決まりだな」
そなたに作ってほしい献立を考えておく、と言いながら。彼は私の肩を引き寄せた。
***
次の日、昼食の後片付けを終えたキッチンに向かうと、小次郎が材料をあれやこれやと引っ張り出しているところだった。
「何作るの?」
「ありふれた内容ではあるが、肉じゃがとがめ煮をな」
「……煮物?」
「まぁそんなところだな。私の時代の料理ではないが、以前食べた時に美味であった」
「生前知らなかったのなら、どこで知ったのよ?」
「それは、ほら。私は先の聖杯戦争でも召喚されていたからな。現代の事情にもある程度は通じておる」
「ふーん……」
私の知らない、彼の姿。思うところがない訳ではないけど、過去に召喚された彼と今目の前にいる彼は、起源は同じでも別人だ。別の世界の彼が何を思って、誰と過ごしてきたかなんて、今ここにいる私には関係ないはずなのに。
それでも、心の内が少しだけ曇る。うまく笑えないまま彼の方を見ると、彼は不思議そうな表情になった。
「気にしないで続けてちょうだい。ここを使える時間はあまり長くないんだし」
「……そうだな」
では始めようか。そう言って包丁で芋の皮剥きを始めた彼の手の動きを、ぼんやりと眺めていた。
***
「成程ね。どちらも、材料の切り方と煮る順番を間違えなければ失敗することはなさそう」
「そうだな。後は、調味料の分量位だが……目分量でも案外上手くいくものだし、割合だけ覚えておけば大丈夫であろう」
そなたは料理が上手いからな。鍋の火を消しながら、彼がそう褒めてくれた。それにお礼を返しながら、鍋の中を覗き込む。
「作ってるの見たら、小腹が空いてきちゃったわね」
「白米が少し残っていたから、握り飯でも作ろうか。具材が見当たらないから塩結びになってしまうが」
「構わないわ。ありがとう」
そう言うと、ではと言って彼はあっという間におにぎりを作っていった。身の回りの事は全て自分でしていたから、家事炊事は一通り出来るぞと言っていたが、確かに料理中も手際が良かったと思う。剣の道を極めるために、一人修行に明け暮れた。する人がいないから、全部自分でやっていた。つまりは、そういう事なのだろう。
「ん、出来たぞ」
そら、と渡されたおにぎりを黙々と食べていく。ちらちらと視線を寄越してくるので、美味しいわよと返しておいた。
「塩少ないんじゃないかと思ったけど、結構しっかり味が付くのね」
「塩や砂糖は、微妙な差で大きく味を変えてしまうからな。それだけを使う時は、少ないかもしれないと言う位が丁度良いと思うぞ」
「覚えとくわ」
最後の一口を食べ終えて、何気なく彼の方を向いた。目が合って、彼が唐突に笑い出して、何がおかしいのかと口を開きかけたその時。彼の顔がふっと近づいてきて、口の端辺りを……ぺろりと舐められた。
「っな……!!」
慌てて彼から顔を離し、体ごと距離を取る。耳と、頬と、頭が、一気に熱を持った。
「いきなり何するの! 不意打ちはやめてちょうだいって言ったでしょ!」
彼を睨みつけながら、まくし立てる。ぱくぱくと口を動かして声にならない言葉を発していると、彼はにやりと笑いだした。
「口の端に、米粒がついておったのよ。最初は指でとろうと思ったが、こうした方が恋人らしいかと」
「らしさとかいいから! 指で! 取って!」
「えぇー。せっかくの機会を逃すなんて、もったいないでござろう?」
「勿体なくない! あんたと違って、私はこういう事に慣れてないの! 心臓に悪い!」
「……別に、私の方も手馴れているとか、そういう訳ではないのだが……」
「どこがよ! 毎回毎回、そんなに私をおちょくって楽しいの!? もう、ほんといい加減にし……んむっ!?」
続きを言う前に、彼の熱に口を塞がれた。必死に抵抗するのに、熱はさらに深くなって、奥の方まで探られて。為す術もなく彼の思うままにされているというこの状況が、私の意志などお構いなしにねじ伏せられているこの状況が、恐ろしくなって。んんっと声を漏らしながら、自分の頬に涙が伝っていったのが分かった。
「……すまんな。泣かせるつもりはなかったのだが」
ようやく解放してもらえて、心底安心した。向こうも肩で息をしているので、苦しかったなら早く離してくれればよかったのにと恨めしい気持ちになってしまう。
「……嘘ばっかり」
多分、本当に泣かせるつもりはなかったのだろうけど。でも、泣いてしまった事で何かの箍が外れてしまったのか、心の奥底にあった負の感情が、ばらばらと浮き上がってきたような心地がした。
「嘘などついておらぬぞ」
むっとした顔で、小次郎が言葉を返してくる。でも、一度自覚してしまった恐怖や不安、憤りめいた感情を、抑える事が出来なかった。
「どこが? いつもいつも私の事からかってばかりで、軽口ばっかり叩いてきて。付き合う前と、何ら変わらないじゃない」
「それは……」
「からかって、軽口で本心をひた隠しにして、悟らせないで。この状況で、一体、貴方の何を信じろというの?」
「……マルタ殿」
彼の手が、私の頬に触れようとした。今みたいに二人でいる時ならば、普段は大人しく撫でられるのだけど。とてもそんな気持ちになれなくて、久方ぶりに彼の手を振り払った。
「貴方の手を取れば、核心に触れられるのかもって。見えなかった本心に触れられるのかもって。もっと近くにいたいと思ったから、貴方の手を取ったのに。ずっと長く一緒にいたいと思ったから、中途半端なままでは貴方を受け入れられないと言って、待っていてほしいとお願いしたのに」
「……」
彼の表情から、感情が消えた。止まらないと取り返しがつかなくなるような気がしたのだけれど、とても止まる事は出来なかった。言ってやらなきゃ、気が済まなかった。
「あの時の言葉も、単なる軽口だったの? 私はずっと、貴方に遊ばれていたの? 単なるお遊びだったから、先に進みたくないという私を、見限るつもりだったの……?」
「違う」
言ってやったと満足する気持ちと、言ってしまったと後悔する気持ちがないまぜになる。相反する気持ちが渦巻いて気分が悪くなってきた所で、凜とした低い声が耳元で響いた。そして、強い力で抱き締められる。その温かさが、渦を巻いた負の感情を昇華していってくれた。
「違うんだ。そんな小難しい事は一切考えておらん。私がそなたをからかうのは、もっと単純な動機だ」
「……何だって言うのよ」
じとりと睨みながら問うと、彼は、視線から逃げるように私を抱き締めなおして、口を開いた。
「小さい子供は、親の気を引こうとして悪戯をするであろう? 私のそれもあまり変わらん。そなたに惚れているからこそ、気を引きたくて、こちらを向いてほしくて、ついついからかってしまうんだ」
「……そういうもの?」
「意識的であれ無意識であれ、男児は割合そういうのが多い。まぁ、私の場合は……そなたが恥ずかしがっている顔や怒っている顔も可愛らしいから見たい、という理由が多分に含まれているが」
「……そう、なの」
好きだからこそ、気を引きたい。方法は褒められたものではないが、その心理自体は分からないでもない。
「怒ってる顔が可愛いなんて、ずいぶんな悪趣味ね」
未だ慣れない誉め言葉が落ち着かなくて、可愛さの欠片もない言葉を返してしまう。私の事を可愛いなんて言うのは、ここでは彼くらいのものだ。その彼だって、最初の頃はそんな事言ってなかった。
「私は、花鳥風月を愛でる風流人と称される事が多い。趣味は良い方だと自負していたのだが」
「良くないわよ。こんな、未だに勝気の抜けない、素直さの欠片もない町娘なんて……」
「本当に素直でない人間は、反省して自己嫌悪するという事をしないものだ。それをしているのだから、素直でない事はないだろうよ」
「だけど、男の人って……素直で可愛い、自分の事を肯定して褒めてくれる、分かりやすい女の子が好きなものではないの?」
ぱらぱらと読んだ漫画や本で得ただけの、簡単な知識ではあるけれど。そういう傾向の女の子の方が、好かれている感じはあった。
「そうだな。人それぞれ好みは違うが、一般的にはそういった女子が好まれる傾向は確かにある」
「そ、れ、なら……」
「だから、私はそなたを選んだ」
「……は?」
この人は何を言っているのだろう。どこをどうしたら、そんな結論が出るというのか。
「意味が分からないんだけど。私、あんたを褒めた記憶ないわよ?」
おちょくられて腹が立ったから言語合戦に応戦したとか、しつこい手合わせ要求を片っ端から断っていったとか、気恥ずかしさで辛辣な言葉を浴びせてしまったとか、そんな事しか浮かばないのだが。自分で言うのもなんだが、選ばれる要素がまるでない気がする。
「マルタ殿は、素直で、可愛らしくて、分かりやすいではないか。そら、十分当てはまる」
あっけらかんとそう告げてくる彼の顔に、からかいの色は見られない。本気でそう思っているらしい。それは嬉しい。嬉しい、けれど。
「……本当に、悪趣味ね。私の事を可愛いという人なんてあんたくらいのものよ」
そんな言葉を呟き、彼の胸元に顔を埋めた。そんな悪趣味な風流剣士を好きになってしまった自分は、もっと悪趣味なのだろう。
「あんまり自分を卑下するものではないぞ。いつもの勝気はどこへ行った?」
不思議そうに問いかけながら、彼の手の平が私の頭を滑り、指が私の髪を梳いていく。それを嬉しいと思ってしまう位には、もっとしてほしいと思ってしまう位には、私は彼に絆されているのだ。
「卑下してるわけじゃないわ。ただ、不思議なだけ」
「不思議?」
「ここには、それこそさっきの言葉通りの女の子とか、剣の道に通じている女の子とか、日本出身の子もたくさんいるわ。それなのに、あなたが選んだのは私だった。生まれた国も、地域も、時代も、尊ぶものも、何もかもが違う私をね。接点がまるでないから、嬉しいけど不思議なんじゃないの」
ほんの少しの嘘を混ぜて、彼へ返答する。不思議だからという理由以上に、自分にはそこまで彼に好かれる要素があっただろうかと言う自信の無さがあるのだ。神への信仰ならいざ知らず、こういう方面で自信があった事なんて一度もない。
「……オルレアンで、そなたが敵として現れた事がある。その時の記憶はあるか?」
「あんまり。そういう事があったっていう位は知ってるけど、詳しい事はほぼ覚えてないわ」
覚えているのは、願望から生まれた黒い聖女をマスターとして召喚された事とその彼女の顔、無事に倒されて安堵した時の感情位だ。
「その時のそなたの言動がな。実に私好みだったんだ」
懐かしんでいるのがよく分かる声音で、そんな話が紡がれる。しかし、彼の好みに合った……と言う事は、その私は好戦的な性格だったのだろうか。そのあたりの事を詳しく聞いてみたいと思ったが、彼の言葉が途切れなかったので聞く機会を逃してしまった。
「だから、もっと話してみたい、知ってみたいと思っていたが……待てども待てどもそなたは呼ばれなくてな。先日のクリスマスにようやっと召喚されたと聞いた時には、マスターともども喜んでいた」
「……そう」
彼の手が、頭や髪以外の場所も撫で始めた。触れられた肩や腰のあたりがじんわりと熱を持つ。今くらいの接触でこれなら、それ以上を許してしまった時、私は一体どうなってしまうのだろう。
「……なら、私の心配は、取り越し苦労だった?」
「そうだな。言葉は悪いが、いらぬ心配だったな」
顔が見えないので表情からは探れないが、彼の声音の落ち着き具合や触れる腕の力強さが、今の言葉が真実であると裏付けてくれている。私の方も彼の背に腕を回すと、嬉しそうな吐息が耳に触れた後で、さらに強く抱き締められた。
「……これを要らぬ心配、と言うなら。今度からは心配させるような事しないでよ?」
そのまま素直に引き下がるのは癪なので、一応釘をさしておく。あんまりからかいが過ぎると、気持ちが離れる一因になりかねないんだからねと告げると、彼は重苦しい声で呻くように返事をした。
「私の方も、二人でいる時だけっていう前提はあるけど……あなたが、不意打ちしてきても余裕で笑っていられるように、慣れるように努力するから」
だから、もう少しだけ待っていて。そう言って、初めてこちらの方から触れ合わせる。口を離した後で見た彼の顔は、夕日のように赤くなっていた。
(完)